反出生主義への反論・批判

反出生主義について少し意見を書いておこう。初めに私の立場を述べておくと、私は安易な反出生主義については否定的である。ただし積極的に出生すべきとする立場も持ちはしない。私自身は仏教、ニヒリズム、快楽主義の間で揺れているぐらいだと思っていただきたい。


まず、生まれてきた事を否定する「誕生否定」については、ただの感想であって主義として成立していない。生まれてきた事が苦痛? そうだね、可哀想だね。以上。生まれてきた事でなく生きている事に注目しろ。

次に、人間を新たに生み出す事の否定、「出産否定」。ショーペンハウアーの主張する「人生は苦しみの方が多い」は、「お前がそうだっただけだろう」としか言いようがない。生に祝福されなかったのは貴方。生まれてくる子がそうであるか否かは誰にもわからず、新たに生まれる人間についてこの点から産まれさせなくするのは唯の価値観の押し付けである。より悪くなるかもしれない道に他者を歩ませようというのか、という意見については、より良くなる可能性の無視であり、悪い側面のみを見ているに過ぎない。勿論、子が良い人生を送る事を確信する事についても希望的観測と言わざるを得ない。生に祝福されるか否かのガチャといえばそれはそうで、そこで外れた者が「自分のようになる人間を減らしたい」「そもそもこのガチャのシステムが間違っている」と主張したくなる気持ちはわかるが、余計なお世話または逆恨みというものである。ナイーブが過ぎる。

ベネターの、快楽と苦痛が非対称であるという件の図を以てする説明については、いやはや詭弁の臭いがプンプンする。主体が存在するなら苦痛は「悪い」、快楽は「良い」。主体が存在しないなら苦痛の欠如は「良い」、快楽の欠如は「悪くない」。故に主体は存在しない方が「良い」―――こういう説明である。なんか変じゃね?

変である。「悪くない」が変である。良くもないのでは?

存在しない者についての快楽の欠如が「悪くない」ならば、存在しない者についての苦痛の欠如も「悪くない」にならないか? 或いは苦痛の欠如を「良い」とするなら、快楽の欠如はそれを得る機会すら無いという面で「悪い」になるのではないか? 何故、存在すらしていない者が苦痛を感じない事を「良い」と断言できるのだ? いや、そもそも存在しない者について語る事自体がナンセンスではないか? 存在していない者に対し良いも悪いもないのではないか?

まず、ベネターの言う快楽はどう見ても「あれば良い」程度のものでしかなく、対して苦痛は「あってはならない」ものと考えている。これを対比に置く事自体前提の不均衡である。異なる条件で考えているのだから非対称になるのも当然だろう。この詭弁を以て「反論不可能」等と宣うは全くの自作自演である。彼が耐え難い苦痛を味わった事はあっても、筆舌に尽くし難い幸福を得た事が無いが故の快楽の軽視に過ぎないのではないか? 

第一、快楽と苦痛は二項対立で対比し得る概念ではない。これは「好き」「嫌い」程度のレベルの話でしかない。両者は何れも相方があるからこそ存在できる、相互依存的な概念である。何れか片方の肯定は、この構造そのものを肯定する事に他ならない。好悪に対し無関心があるように、快・不快に対しても「無」がある。そのレベルの話もせずに、偏った二項対立で言葉遊びをするのは随分と言い訳がましく、また見苦しい態度である。


私の所感としては、苦は存在に由来する事、生まれる事は同意無しに背負わされている事、この辺りは特に否定する理由はない。その通りだろう。が、自分が生まれてきてしまったものは最早仕方がなく、である以上その苦を可能な限り減じ幸福に向かおうとする姿勢を取った方がいい。生まれる者があり、死ぬ者があり、苦しむ者があり、安らぐ者がある。子をなす者、なさぬ者、好況、不況、そういった諸々が時となりゆきに任せて発生し、また消えている。そういう世界の中に自分が独り立った時、多様な波の中で如何に上手く過ごすかという見方をして私は生きてきた。大いなる歴史の流れは個人には如何ともし難く、当然、この波の中で「皆滅びろ」などと叫ぶのは全く無駄な行為である。他者にどうこうする前にまず己の苦を何とかしたまえ。ショーペンハウアーもシオランも、シッダールタの説く四苦、即ち生老病死の最初の「生の苦」を挙げて「自分と同じ事を考えている」などと言ったが、思い違いも甚だしい。存在は苦である、それはいい。だから消滅に向かおうというのでなく、苦を滅し快・不快からも離れた最上の幸福に向かおうという生の哲学が仏教である。というか、彼らはまず十二因縁について全く不勉強だ。苦のメカニズムに対し無頓着である。私とてニヒリズムに堕ちてはいるが、快・不快の原理の立場で見ても仏教で説かれるデタッチメントの上にある至福の方が断然良い、と自信を持って言える。私の快・不快の原理にしてもここから離れるべきであろうとは思っている。

子を持つか否かについてもシッダールタは「持つべきでない」と説くが、これは個人の煩悩や執着の元になるからであって、人類を滅ぼそうと言っているのではない。そもそも無理だ。原始仏教は己の苦を減じたい者、問い続ける者に向けられた(高難易度な)技術・哲学体系であり、反出生主義のような安直でナイーヴな思想とは全く異なる。


ここまで言っておいてなんだが、私も仏教に完全に染まりきり、或いはそれを実践し得ているというような事はない。

それでも、生まれてこない方がよかったという言は原理的におかしいだろうと私は思っている。存在する者が存在に由来する事柄について存在しない者と比較する事自体不可能且つナンセンスであり、「何も無い」が何を意味するのか理解していないと言わざるを得ない。彼らも結局は「在る」ものの話しかできていないのだ。「何も無い」を直視したのなら、その発想は出てこない―――生じるのは、感覚としての空虚さだけだろう。あの深淵を前に、あらゆる主義は無意味である。私のニヒリズムも、私の態度だけを強引に分類したものに過ぎない。私は他者に対し強弁するような主張を持ってはいない。生きていてもいいし、死んでもいい。生きているのならば快・不快はどうしても感じてしまうから、なるべく偏らせ続けよう―――これが今の(或いは今までの)私の態度である。デタッチメントに身を投じるには、未だ些か距離がある。快・不快から離れろと彼らに対して言っているのではない、快・不快の話しかできていない凡夫の風情で仏教を理解したと勘違いするのをやめろと言っているのである。私も当然、真に理解はしていない。していないが、せめて理屈の上ででもそれを学ぶ上で、反出生主義の理屈がおかしいという事だけは言えるのである。

私も、子を、家族を持とうという気は無い。自分が長く生き続けようという意思もないし、人類の存続も別に願ってはいない。存在の痕跡を消していきたいと思う事もある。生まれる事、関係する事は苦の元であろう。輪廻、死後の世界などさらさらゴメンである。が、生み落とされた事を恨んでいるわけでもなく、詭弁を弄してまで無駄な主張を繰り広げる気もない。他者に生きろと言うつもりがないどころか、幸福な自死は肯定している。理由がない事はやらない。私は、良くも悪くも私自身の事しか考えていない。ただ、安直な発想は肯定し難い。

虚無には勝てない。あの強烈なリアリティは本来リアルである筈の他の全てを吹き飛ばす。しかし結局はそれを受け取る個人の脳の問題でしかなく、私の感じ方の話でしかないのだから、別の感覚で埋めさせてしまえば誤魔化す事はできる。凡そ「楽しい」行為はそう感じた瞬間から空しさが発生してしまうが、安らかなる幸福にはその余地がない。脳内麻薬で埋めてしまえ。……これが今の私の立場である。どうせ全て無意味なら、悲劇のヒロインみたいな面をするより瞑想でもしてキマっていた方がずっと得であろう。なんだかんだ、彼らも真理なるものの存在を信じているのだろうな。

然らば。

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