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【試訳】 テリー・アトキンソン 「先の記事 『芸術の脱物質化』 に関して」 1968


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「脱物質化」という語の使用について、いくつかの問いを投げかけたい。精確には、視覚芸術という帯域で必須の条件と看做されてきた指針(すなわち「目を向ける」対象物の存在)が瓦解していく過程を記述し、それを的確に位置づけるにあたって、それが正しい用語なのかという点についてである。あなた方の記事では一種の古生物学的な参照の枠組みに強い力点が置かれているように見受けられる。それが準拠するところの与件は、諸々の芸術制作の手順に関するシリンガーの進化論的で分類的な年代記から取られている。つまるところ「脱物質化」という言葉を用いて記述が試みられているのはあるひとつの過程であり、その過程の構造は他の諸々の過程との繋がりにおいて形成されたということだろう。そうであっても、どれほど注意深く考察したところで私に知覚できるのは、記事中における「脱物質化」という語の比喩性でしかない(余りにも明白な事実の指摘であることは承知している)。比喩的な使い方が例外なくすべて悪いというわけではない。しかし記事が関心を示していると私が理解するところの件の過程についてそれが為されるとき、そこにはいくつかの短所があるように思う。脱物質化の過程とは、どんな厳密な意味においても、おふたりが記述している(と私が理解している限りの、と強調しておこう)過程とは一致しないのである。[・・・]

・・・ オックスフォード英語辞書によれば「脱物質化」の定義は「諸々の物質的な質を剥奪すること」である。ここでは物質を以下のように定義することが適切だろう。それはエネルギーの特別な形態で、それには量塊性と時間的な延長性という属性があり、肉体の諸感覚を通じて私たちはそれについての知見を得ることができる。ならば次のこともあまりにも平明である。ある物質的事物体が脱物質化されるとき、それは単に(可視性の対極としての)不可視性を獲得するのではなく、私たちの諸感覚のどれを通じても知覚できない事物体と化すのだ。物質性の範疇で言うなら、端的に言ってそれはひとつの非事物体である。ゆえに、脱物質化の途上にある芸術物体について語りたいのなら、*1 あなた方に義務として課せられるのは物質的な痕跡を持たない物体について語ることである。それともおふたりは、比喩の特殊な威力を介して、今日の芸術家たちの一部は非物質的事物体を用いることで発想を実演していると語っている、あるいは示唆しているのだろうか。ならば、語られるべきは未だ具体化されていない発想である。ある物体が不可視だから、あるいは以前より可視性が低下しているから*2、あるいは他の物体よりも可視性が低いからといって*3、何らかの脱物質的な過程が生起したことには決してならない。このまま続けることが許されるなら、下記において、おふたりの記事にもっと個別的な言及を加えていきたい。

記事中で言及されている諸々の芸術仕事(発想)の事例は、僅かな例外を除いて、大半が芸術物体である。伝統的な物質状態を保持したお馴染みの芸術物体とは異なるかもしれないが、とはいえそれらの形態は固体か気体か液体であり、何かしらの物質性を帯びている。脱物質化という語の比喩としての使用に対する私の警告の軸にあるのは、こうした物質状態についての問いである。*4[・・・]あなた方が指摘しているのは、ここのところ発展している芸術的な感性の方向性(どうやらそれは、これまで芸術家の業務として了見されていなかった領域へと芸術をどんどん延長させようとしているようだ)であり、ゆえに私は件の記事を重要な記録文書として捉えている。しかし、そのような発展を解明、補外、詳説、定式化しようと試みるなら、それがどんな試みであれ、いわゆる芸術制作の手順における行為やその渦中から結果として生じる物体を記述するために伝統的に使われたものよりも遥かに厳密な用語や弁論をそれ自体において開発し、使用することが求められるだろう。伝統的な手順を基礎づけるのは、結局のところ、露骨で猛烈な詩性と甘美性なのだから(偉大な芸術批評として評価されるものの大半が偉大な芸術創話にすぎないことが明らかになることも、単なる可能性に留まらないのかもしれない。)*5

あなた方の記事から興味深い側面をいくつか取り上げてきたが、改めて簡潔に繰り返したい。物質とはエネルギーの特別化された形態である。物質性を介さずにエネルギーが存在するには、放射エネルギーという形態を取るしかない。ゆえに、脱物質化が物理現象として生起するという事態が意味するのは、ある物質の放射エネルギーへの変換(私はこの単語を慎重に使っている)である。エネルギーは決して創出も破壊もされないのだから。さらに言えば、放射エネルギーを用いた芸術形態について喋るためには、形態性を欠いた形態について喋るという矛盾に身を投じなければならない。形態性を欠いた形態(無物質)と物質的な形態に関する問いに取り組むために甘美な比喩が配されるとき、言葉の曲芸が生起することは容易く想像できるだろう。ここにきて美的感性の哲学と呼ばれるものは、実際はいつもそうだったように、それが芸術仕事の内容と呼んできたものに頼ることになる。しかしこの哲学に装備された諸々の道具は、どれだけ高く見積もっても、物質的な状態にある事物体の作成に絶対的に依拠することで成立する類の芸術に関する問題にしか対処できない。これらの道具の短所は、物質物体の限界の内側においてははっきり見えるほど平明だが、その限界がひとたび突破されれば、ほとんど考慮に値しないように思えるものだ。全体の枠組みの欺瞞は言語によって情報を記録する芸術手順には適用されず、ゆえに放免されるし、作成された事物体(すなわち文字が打ち込まれた紙)が帰結として帯びる物質性は必ずしも発想それ自体との関連性を持たないのだから。というのも、発想とは「目を向ける」ものではなく、むしろ「読み取る」ものなのである。ある種の芸術は直ちに物質的であり、別の芸術においては発想を記録する必要性の副産物としてのみ物質的な事物体が作成されるわけだが、このことが意味するのは、前者が脱物質化されていく過程と後者との間の繋がりなどではない。

私はここ英国において、緩やかな意味でひとつの頭脳集団と呼びえるもの *6(マクルーハンを想起させるような科学技術的な業界用語の比喩としての使用を非難される危険は承知している)に継続的に参加している。この集団が取り組んできたのは、現時点で私に思いつく限りでは「言及の枠組み」*7 と呼ぶほかない範囲の内側で展開される諸々の「物体性を欠いた」実質である。この枠組みでは、諸々の理論的な事物体だけを用いている。ゆえにそれは物質的な芸術としても非物質的な芸術としても勘定されない。発想は打ち込まれた言葉という形で記録されることになる。発想は、その本来的な性質から、そのような形態で(あるいは磁気テープ上の音声として)しか十全に展開できないのだ。こうして書き留められた情報は、他の書き留められた情報と同じような読まれ方において読まれるのみである。[・・・]

・・・「空調展」や「空気展」や「時間展」ではいくつかの理論体が構築されたわけだが、それらを定式化するためにマイケル・ボールドウィンと私自身が用いてきた技法については、芸術物体を制作するという理念から個々の内容が切り離されていくような技法であるとしか現時点では言えない。おそらく何かしらの内容隔離の技法ということになるだろう(こうした記述には慎重でありたいが、次のことは否定できない。いささか逸話的になるが、この用語に私が惹かれるのは、芸術仕事の内容について語ることの無用性について、クレメント・グリーンバーグがまるで司教のように広めていたからである。それが正しく意味するところは、彼がそれらの仕事について語る言葉を持たないということだと私は思うけれども)。精確ではないにせよ、もっと近似的に言うならば、そこで芸術家が取り組む媒体は、視覚芸術の伝統的な文脈ならば美術批評家あるいは美術史家のための媒体として認知されてきたものである。この技法の方法論について、もう少しだけ詳説してみよう。もしも件の(マイケル・ボールドウィンと私自身が用いるところの)理論的な枠組みにおいて、現行の状況が、新しい記述的な用語およびそれに類するもの——それが提供する非消去的な文脈には、法則的な意味合いを読み取れるような一貫性と適切性が備わっている(つまるところ、仮にそのような枠組みを規定する諸々の規則があるのなら、それらは枠組みの構造的な特質の帰結として開放式なものであり、ゆえに規則として同定することは難しいはずである)——の内的な導入(すなわち私が呼ぶところの言及の枠組みの内側へ)と双務的に関係しているに過ぎないことが指摘されるのだとしたら、明らかに、制作された物体についての問いは答えを伴った問いとして見られることになるだろう。結局のところ、そもそも性質として、発想の内容を記録する必要性の副産物として作成された物体がなければその問いへの答えは認識できないというわけだ。したがって、その枠組みの内側で作成された物体(すなわち字が打ち込まれた紙)を「読み取る」対象物というよりも「目を向ける」対象物として考慮することは、一次的な意味で視覚的な情報を作成する意図など存在しない場所でそのような情報を探し求めることでしかない。*8

「脱物質化」の記事であなた方が示したもうひとつの興味深い仮定について、同様の視点から少しばかりの発想と思考を展開したい。引用しよう。「脱物質化した芸術は、他でもない非視覚性の増強という点において、美学以後的である[・・・]」。私が知る限り、ここ英国にも件の(おふたりの記事に関連する)諸問題に関心を寄せる人々はいるが、彼らのうち誰ひとりとして、「原理の美学も一種の美学である」ことの是非をわざわざ論うことはしないだろう。*9 しかし私が試みた若干の省察には、このことに関連する妥当性があるかもしれない。方程式、公式、理論体は、記号や言葉などによって書き留められることで記録されるのが常だが、それらに適用される美学的な基準は、通常の場合、それが記述/説明しようと希求している状態や状況に直結する情報が、書き留められた形態においてどれだけ効果的に表現されているかに関係しているだろう。もしも類例を持ち出すことが許されるなら、次のような事態について考えてみてほしい。ある男が1枚の地図を所有しており、彼はその地図に含まれた情報から、AからBまでの行き方について指示を受けられると知っている。しかし彼は、それを読み解くための適切な筋道を知らないため、その地図を読むことができない。それでも彼がその地図には偉大な美しさがあると言ったとしよう。このとき彼は、その地図が1枚の地図として提示する情報に基づいて、そこに美しさがあると判断したのではない。彼はその地図について、他の何らかのやり方で語っているのだ。さて、ひとりの科学者が方程式の美しさについて語るとき、彼は方程式を読み解くための適切な筋道を知っているのであり、*10 その性質に基づいてこそ彼は美を判断しているはずだ。彼には方程式がどれくらい良いのかについて判断を下すための基礎がある。もしも彼が「方程式」という対象物を読み取るために見るのではなく、単にその「方程式」という対象物に目を向けているだけなのだとしたら、その方程式の美しさに関する彼の判断は、それに備わる何らかの別種の美しさに基づいているはずである。もしも、例えばだが、方程式に目を向けて読み取っており、しかしその読み取りが間違っているのだとしても、そのとき彼は別種の美しさの基準を適用しているのではない。むしろそこには真偽に関する問いが割り込んでくる。別種の美しさに関連する判断は、真偽に関する問いの精査に先んじて、妥当性と非妥当性に関する問いを持ち込むのである。記事からさらに引用しよう。「[・・・]これらの言明を読めば読むほど、次のことがより明瞭に見えてくる。宇宙の秩序と構造を暴こう、あるいは宇宙に秩序と構造を押し付けようとする試みは、本質的に美学的な推定に根ざしているのだ。秩序そのもの、そしてそこに含意される簡潔性と統一性は、本質的に美学的な基準である」。いまや反物質に関する徹底的に理路整然とした理論(クォーク理論のこと)の探求は魅力的であり、リチャード・ファインマンが主張する啓示の経験や、それによって彼には私たちの大半が感知できない物事や現象が感知できるのだという話に異議を唱えるつもりは毛頭ない。だが——これは看過できない「だが」だと思う——「自然は本来的に美しい」(ゲルマン)あるいは「そこには気品と美があった。奴は煌めきを放っていた」といった言明は、両物理学者の「美学的な」洗練の証左を示すものかもしれないが、それ自体には方程式や公式や理論の有効性とのいかなる関わりもない。

美的感性の諸原理は、哲学的な探求の一領域として確立している。*11 しかし原理の美学となるとまったく別物である。(比喩を使うなら)馬の前に荷馬車を置くことに危険性はないのだろうか。言うまでもないことだが、私はあなた方が提起を望むなら、どんな議論も歓迎する。おふたりが「原理の美学」*12 といった語句を用いることで意図しているのは、美に関する感性学の原理を何らかの形で暗示することなのだろうか? 仄めかされているのは何らかの超美学なのだろうか? どうやら私たちが直面している困難は、良さの一般的な定義を可能にする枠組みを構築すること、そしてその帰結として良さの諸々の変種を精査するための方向性を構築することのそれだけではない。*13 それに加えて、あなた方はどうやら次のことも暗示しているようだ。すなわち、私たちは自分たちが考えるところの良さの正体を突き止めたいという衝動を持ち、その衝動の徹底的な分析を希求しているが、そのような領域だけが美学という項目の傘下にあるのではなく、美学はその慣習的な適用に加えて、原理理論の美学(ある種の諸原理の理論?)の構築へと延長されていくのだと。そのような理念が暗示するところによれば、美学の性質の正体を精査するために設定された枠組みは、それ自体の根幹として、それが精査しようと試みる対象の性質(枠組み)を備えるらしい。明らかに、ここには正しいとは言い難いことが含まれている。ひとつの原理とは、少なくともある意味において、ひとつの理論的な基礎として定義されるものである。理論的な基礎の美学だって?「文芸批評の諸原理の美学」あるいは「熱力学の諸原理の美学」と題された書物を想像してほしい。ある原理の良さは、多くの場合、それが特定の理論あるいは構成概念の根幹を成しているかどうかによって判断される。ならばこれら2冊の本は、純粋に思弁的な話になるが、文芸批評と熱力学の諸原理の起源として、まったく同一の諸原理の原理に辿り着くのだろうか? こうした点についておふたりに何らかの思案があるのなら、ぜひ伺ってみたい。いずれにせよ私が考えるところによれば、美学という語を使って原理の美学などと言ってしまうと、原理や美学や基準といった各想念の間に何らかの有効な階層関係があることの是非について、厳重に精査する必要が生じるはずである。復活祭の時期、私はニューヨークに滞在するつもりだ。おふたりとお互いの観点を交換する機会があれば幸いである。

誠意を込めて。テリー・アトキンソン

追伸:デイヴィッド・ベインブリッジとマイケル・ボールドウィンとハロルド・ハーレルはこの手紙に目を通していないが、彼らから信任されることを確信したうえで、私は署名する。


1. 脱物質化は、とりわけ放射エネルギーという形態に関係している。それこそが、物質の不在においてエネルギーが存在できる唯一の形態なのだから。この要因については、本稿の後半でもう少し詳しい議論が為される。
2. 「可視性の低下」という語句を使うとき、可視性の質の記述に際して、いくらか日常的な語法を用いていると認めよう。ここには、本稿で触れた以上に根源的な問いが暗示されている。例えば、霧の中を走る自動車の可視性が晴れ渡った日よりも低いと言うとき、それは霧の深い日の私たちの視覚がいつもより悪いことを意味しない(つまり私たちの視覚的な機構が普段より悪く機能しているわけではない)。晴れ渡った日に自動車の際立った像を見るのと同じ明瞭さにおいて、私たちは霧深い日に自動車の不明瞭な像を見ている。
3.(2.と関係しているが)つまるところ、可視性のより低い物体の可視性の低さの明瞭性は、可視性のより高い物体の可視性の高さの明瞭性と同程度であることを私たちは見知っている。
4. 私は1967年5月に、あるささやかな理論物の概略をまとめた。個体から液体そして気体への変換過程の使用に関連するものだ。1967年2月から5月かけて取り組んだ他の小さな理論や理論物とともに、そのうち発表するかもしれない。同時期にマイケル・ボールドウィンと一緒に取り組んだ「空調展」やデイヴィッド・ベインブリッジとボールドウィンと共に取り組んだ(そして今も取り組んでいる)いくつかのまだ定式化されていない発想はこの範疇に含めず、別の分類とする。これらの発想はより包括的な性質を持つと思えるからである。
5. もしもそれが中編小説の範疇に属すことが明るみに出るなら、間違いなく、未来の考古学者たちはこのような批判を興味深いものとして捉えてくれるだろう。
6. 私がここで「頭脳集団」という用語を用いて指しているのは、ハロルド・ハーレル、デイヴィッド・ベインブリッジ、マイケル・ボールドウィン、そして私自身の間に存在してきた緩やかな同盟のことである。「空調展」や「空気展」や「時間展」、さらには「枠組み」に際しては、とりわけマイケル・ボールドウィンと私が密接に連携しながら仕事を進めた。現在はハードウェアMIを主に扱う企体に取り組んでいる。デイヴィッド・ベインブリッジの工学設計によるものだが、私たち4人全員による詳説と理論化を伴いつつ進行している。
7. 「言及の枠組み」という想念は、私が知る限り、マイケル・ボールドウィンと私が1967年の9月と10月に取り組んだ「空気展」の文脈において、ボールドウィンによって最初に用いられた。私たちは「枠組み」の装置について考察に値する詳説と補外を定式化してきたのだから。
8. その帰結として「枠組み」には二次的な視覚情報の形態による一節が含まれている。「空調展」と「空気展」と「時間展」には一次的な視覚情報を提示する意図がなかったことを説明するためである。
9. ここで注記すべきことがある。私の推測では、「原理の美学」という語句を使うことで開始される美学とは、あなた方によって視覚的美学以後的と判断されるところのそれである。原理の美学に関する問いは本稿において改めて後述され、さらに詳しく扱われる。
10. ここで次のことを確認してもよいだろう。芸術物体(一次視覚情報)を解釈するためには、芸術物体の読解に関する適正な筋道を辿ることが相当の助けになることは明白である。したがって次のことは明快に違いない。芸術物体を一次視覚情報と呼ぶことは、産なやり方で芸術物体の包括的な読解を為すことが可能だと述べることではない。むしろ人は、自分が目を向けている物体について、「目を向ける」という行為を通じてこそ読解するのである。「R」という文字に目を向け、それを読み取るとき、人は通常の場合「R」の形態を精査しているのではない(それが「R」として認知できない形をしているなら別だが)。そうではなく、それがいかに他の文字と調和しながらひとつの単語、たとえば「 red 」を集合的に形成しているのかを見るのである。
11. 例えば G. E. ムーアによる『倫理学原理』(等々々)。
12. 註9を参照のこと。
13. ゲオルク・ヘンリク・フォン・ウリクト『良さの多様性』(1963)。

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原文:Terry Atkinson – Concerning the article ‘The Dematerialization of Art’, dated March 23, 1968
訳出:『Conceptual Art: A Critical Anthology』(1999)に所収の省略版

和訳:奥村雄樹
図版:Selection from the catalogue ‘Art & Language Uncompleted. The Philippe Méaille Collection’, pages 76 and 77

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