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[試訳] エイドリアン・パイパー 「芸術における 「構想的」 な過程の擁護」 1967


芸術家の仕事について、あるいは芸術家が彼の仕事に対して示す態度について、「自身から引き離した」あるいは「客観的な」という言葉を使うことの危なっかしさ(遅まきながら!)を私は強く自覚している。こうした用語の使用は、芸術家が不遜にも彼自身の仕事に深く関わっていないという事態を示唆すると思われてしまうため、私はしばしばそれに対する人々の抗議を突き崩そうとしてきた。私にとってそれらの単語はまったく異なる意味を持つ。真逆の意味である——客観的であろうと試みることで、そのように試みないときよりもずっと、人は自身の仕事に深く関わることができるのだと思う。わかってきたのは、ひとりの人物としての私の「嗜好」に基づいて判断を下すとき、まったくもって息を詰まらせるような制限が押し付けられるということだ。主観的な好き嫌いを基準とした選択は、私にとって、自我を慰撫する療法でしかない。それによって、芸術家としての展望を他者と共有する可能性はさらに阻害されてしまうのだ(ただでさえ難しいことなのに)。

そもそも私は、真に良い芸術を作り上げるのは、常に芸術家の人物性などよりずっと広範な物事であると心から信じている。セザンヌが彼の仕事において苦心の末に乗り越えた数多くの障害のことを考えてみてほしい!このような類の客観性について、過去の偉大な芸術家たちが必然的に知っていて、意識的にそれを目指してきたと言いたいわけではない——事実としてどうだったか知るために詮索したいわけでもない——けれど、あらゆる水準において私たちに訴えかける能力が彼らの仕事に備わっているという事実だけでも、彼らが視野の広さを獲得し、共有していたことを証明してはいないだろうか。昨今の新しい呼び方——「冷涼な」「合理的な」「削減的な」芸術——は端的に言って私の見解を補強するものだろう。すなわち、いまや主観性を乗り越えることの必要性は認知されてきており、それは創作の過程を促進するためにこそ試みられるようになっている。


構想芸術の「反人間主義性」に不平を言う人々は、問題を捉え損ねているのではないだろうか。芸術家の発想は基本的にどれも直観的な特質を備えていて、それは最終的に可能な限り純粋な形で姿を現すべきだが、どの客観性も——具体化された体系を構築すること、合理的な判断方法を策定すること、明瞭な構想を形成することに客観性はあるべきだが、そのすべてが——それを促進するためにこそ役立つのである。原点にあるところの直観を自身の人物性に基づく主観的な処理や制限に従属させなければ、最終的な制作物に一種の鏡像として現れてしまった自我の葛藤を突き付けられることもない。

芸術家が自身の創造性を展開させようとするとき、最善の方法は、彼の直観が十全に実現することを可能な限り阻まないことである——人物性および材質による制限は究極的には不可避だが、それに制約されないように尽くすことだ。芸術の最も良く最も純粋な形態が魂心の深淵に存在すると言いたいのではない——私は発想を物理的に具現させることの必要性をとても強く信じている。まずもって私は、最終的に確定した、具体化した形態こそが、発想の真なる存在様態であることを疑わない。そうすればそれが晒される危険は、芸術家が生身の人間である限り避けられない精神の非一貫性と変動性ではなく、物理法則による物質的な形態の劣化のみになるのだから。それから、もしも現実において発想に何らかの究極的に客観的なあり方が存在するとしたら(そんなものが存在するのかどうか、私には何の見解も示せないのだが)、それは誰もが共に参与できる、完全に耽溺的な光景としてしか存在できないだろう。そのためには、誰にとっても知覚可能で、誰もがその光景を結像できるような、物理的な形態が必然となる。気づいたのだが、どうやら私は、自分の主観がもたらす制限に応対するにあたって、構想的な形成の過程にこそ最善の方法を見出すようなのだ。

形態と材質について言えば、そのどちらにも、それだけで構想的な素材として事足りるような可能性は秘められていないと思う。どうやらそれらは私に、心理的な制限と同じくらい堅苦しく息が詰まるような制限を与えるようだ。つまるところ、あらゆる可能な形態やあらゆる可能な材質は、触発的な素材として新たに見出すには、あまりに完膚なきまでに使い尽くされている。私たちの社会環境の全体を踏まえるとき、あらゆる可能な心理的な成分がそうであるように。*1

直観的なものだけが真の意味で無制限である。私はあらゆる芸術を基本的に直観的な過程として捉えている。それが過去において、どれだけ穿った扱われ方をされていようとも。この文脈において、「構想芸術」こそが最も適切なやり方だと思う。創造の過程を解放するために。そうすれば芸術家は、可能な限り最も純粋な水準において彼の仕事——あるいは彼自身——への接近とその実現に成功するかもしれない。


1. 繰り返しになるが、私は誰もが心理的に(フロイト的な意味で)同一であると言っているのではない。そうではなく、環境的な条件を鑑みれば、それらの条件に対してありえる心理的な反応は有限であり、想定の範囲内でしかなく、ゆえに心理的・象徴主義的な芸術に対して、私は限られた主観的な水準においてしか関心を持てないのである。


原文:Adian Piper – A Defense of the “Conceptual” Process of Art, 1967
初出:『Out of Order, Out of Sight. Volume II: Selected Writings in Art Criticism 1967–1992』(ケンブリッジ/1996年)
和訳:奥村雄樹

図版:Adrian Piper, Hypothesis Situation # 3 (for Sol LeWitt), 1968-1969

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