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[試訳] ソル・ルウィット 「構想芸術についての諸段落」 1967


編集者が私に書いてきたところによれば、「芸術家はある種の類人猿であり、文明化された批評家による説明が必須であるという見解」は退けられることが好ましいと彼は考えている。これは芸術家と類人猿の両者にとって良い報せに違いない。私はこのことを言質として、彼の信頼を正当化したいと望んでいる。野球の比喩を使うなら(ある芸術家は白球を球場の外に飛ばしたいと欲し、ある芸術家は投げられた白球を叩くことだけを考えながら本塁でゆったりと待ち構える)、私は自分のために思いっきり振り抜く機会を得たことに感謝している。

私は私が巻き込まれている類の芸術のことを構想芸術と呼ぶことにする。構想芸術において最も重要な側面は、仕事の発想もしくは想念である。* 芸術家が構想的な芸術の形態を用いるとき、それはすべての計画と決定が事前に為されること、制作の執行が通り一遍の事柄にすぎないことを意味する。そこでは発想が芸術を作り出すための機械となる。この類の芸術は理論的ではないし理論を図解するものでもない——それは直観的で、すべての精神的な過程と関わり合いを持ち、目的を欠いている。通常の場合、それは芸術家の職人としての技能に依拠しない。構想芸術に関心を持つ芸術家の目標は彼の作品を観客にとって精神的な意味で興味深いものにすることであり、ゆえに通常の場合、彼は作品を感情的には無味乾燥なものにしようと欲する。しかしながら、構想芸術が観者を退屈させたがっているという仮定は理に適っていない。表現主義的な芸術に条件づけられた人は感情的な蹴り込みを慣習的に期待するが、まさにそれこそが、この芸術を知覚することへの観者の意欲を萎えさせるのだ。

* 他の形態の芸術では、制作の過程で想念が変化することもある。

構想芸術は必ずしも論理的ではない。論理は、一点の作品あるいは連作において装置として使われることがあるにしても、やがて必ず台無しにされるのだ。論理は芸術家の実際の意図を偽装するため、観者に作品を理解していると錯覚させるため、あるいは逆説的な状況(たとえば論理対非論理など)を仄めかすために使われることがある。* 発想は複雑である必要はない。功を奏した発想は滑稽なほど単純であることが多い。功を奏した発想が単純な外観を持つのは、どうやら不可避のことのようだ。発想の点において芸術家は自由であり、自身を仰天させることすらできる。発想は直観によって見つけ出される。

* ある種の発想は着想において論理的で、知覚的には論理的ではない。

芸術の仕事がどんな見た目を持つかは重要ではない。それが物理的な形態を持つのなら、何らかの見た目を持つほかないだろう。最終的にどんな形態を与えられるにせよ、その始点にはひとつの発想がなければならない。芸術家が関心を持つのは着想から実現までの過程である。芸術家によって物理的な現実性を与えられるや否や、仕事は芸術家本人を含めて、すべての人々の知覚へと開かれる(私が知覚という言葉を使って意味しているのは、感覚与件を把握すること、発想を客観的な視点から理解すること、さらにその両方を主観的に解釈することである)。芸術の仕事は完了に至ることで初めて知覚の対象となる。

眼を愉しませようとする芸術は、構想的ではなく知覚的と呼ばれるだろう。これにはほとんどの錯視芸術、可動芸術、光芸術、そして色彩芸術が含まれるだろう。

着想と知覚の機能は互いに相反するため(一方は事前的、他方は事後的である)、芸術家の発想は自身の主観的な判断を適用することで弱められるだろう。もしも芸術家が自身の発想の十全な探求を望むなら、恣意性や場当たり的な判断が最小限に抑えられるほか、移り気、嗜好、そしてさまざまな気まぐれが芸術を作ることから排除されることになる。出来上がった仕事は、仮に見た目が芳しくなくても、必ずしも拒絶されるべきではない。当初は座りが悪くても、やがてそれが視覚的に心地良くなることもある。

事前に設定された計画に沿って作業することは、主観性を回避するためのひとつの方法である。そうすることで、仕事の意匠を設計する必要性が予め取り除かれもする。計画それ自体が仕事の意匠を設計するのだ。何百万であれ、限られた数であれ、とにかく有限の変種を要請する計画がある。一方で無限を暗示する計画もある。しかしながら、どちらの場合においても、基本的な形態、そして問題の解決を支配する規則が芸術家によって厳選される。そこから仕事の完了までの道筋において、判断を下す回数はなるべく少ないことが望ましい。それによって恣意性、移り気、主観性が可能なかぎり排除される。それこそがこの方法を使う理由である。

芸術家が複数の可換部位による方法を使うとき、通常の場合、彼が選ぶのは単純で既に利用可能な形態である。形態それ自体の重要性は著しく限定的である——それは仕事全体の文法となるのだ。実際のところ、最良なのは基本的な単位となる部分をわざと面白味のないものにすることだ。そうすることで、より容易に、それを仕事全体にとって本質的な部分にすることができる。複雑なものを基本形態に据えると、全体の統一性が妨害されてしまう。単純な形態を反復的に用いることで、仕事の領域は狭まり、形態の配置へと強度が集中する。配置こそが結末であり、そのとき形態は手段となる。

構想芸術は数学、哲学、あるいは精神に関する他のどんな分野ともあまり関係がない。芸術家が使う数学はほとんどが単純な算数、もしくは単純な記数法である。仕事の哲学はその仕事の内側に隠れている。それはいかなる哲学の体系をも図解するものではない。

観者が芸術を見ることで芸術家の想念を理解するかどうかは大切ではない。仕事が芸術家の手を離れたら、それが観者にどう知覚されるのかを彼に制御することはできない。異なる人々は同じ事物を異なるやり方で理解する。

近頃は極簡芸術について多くの言葉が書き連ねられている。しかし私は、そうした類のことをやっていると認める者に出会ったことがない。巷には他にも初限構造体、削減芸術、脱出芸術、冷涼芸術、そして短小芸術と呼ばれる芸術の形態がある。私が見知った芸術家には、このいずれにも関与を白状する者はいないだろう。したがって私の結論によれば、美術批評家たちが美術雑誌という媒体を介してやりとりする際に使っているのは秘密の言語の一部なのである。短小芸術は最高である。短いスカートと脚の長い少女たちを私に想起させるから。それが指すのは諸々のとても小さな芸術の仕事だろう。とても良い発想である。もしかしたら「短小芸術」の展覧会はマッチ箱に入れて全国どこにでも送れるのではないか。あるいは短小芸術家はとても小さな人なのかもしれない——5フィートより背が低いとか。だとしたら良い仕事の多くは小学校で見つかるだろう(初級学校、初限構造体)。もしも芸術家が自身の発想を最後までやり抜いて、それを視覚的な形態に換えるなら、その過程のすべての段階に重要性がある。仮に視覚化されていない場合でも、どんな完成した制作物にも劣らぬほどに、発想それ自体がひとつの芸術の仕事である。すべての中間的な段階——殴り描き、草案、素描、失敗した仕事、模型、習作、思考、会話——が興味の対象となる。芸術家の思考の過程を示すものは、ときに最終的な制作物よりも面白いのだ。

作品のしかるべき寸法について意を決するのは難しい。もしもその発想が三次元の立体を要請するなら、どんな寸法でも可であるように思える。問題は一体どの寸法が最良なのかということである。もしもその事物が巨大に作られた場合、寸法だけで強い印象がもたらされ、発想のことはまるごとかき消されるかもしれない。同じように、それがあまりに小さすぎると、取るに足らないものになってしまうかもしれない。観者の背丈が仕事およびそれが置かれる空間の寸法に影響を及ぼすことはあるだろう。芸術家は、物体を観者の目線より高く、あるいは低く置きたいと望むかもしれない。私の考えとしては、作品はその理解に必要な情報を観者に与えるのに十分な大きさを持ち、その理解を促進するやり方で置かれるべきである(もともとの発想自体が妨害性をめぐるもので、それが見えなさや近づけなさを要請するのでなければ)。

空間は、三次元の量塊によって占拠される立体的な領域として考えられる。どんな量塊も空間を占拠するだろう。それは空気であり、目に見えない。事物は計測することができるが、空間は事物と事物との間隔である。間隔と計測はときに芸術の仕事にとって重要である。もしも一定の距離が重要ならば、それは作品によって明白化されるだろう。もしも空間がどちらかといえば重要ではない場合、間隔に向けられる興味を弱めるべく、それは規則性を与えられ、均等化されるだろう(事物は互いに等しい距離のもとに置かれる)。規則的な空間は、ある種の規則的な鼓動あるいは脈動として、時間を計量する要素にもなるかもしれない。間隔が規則性を持つとき、何であれ不規則性を持つ事物が重要性を高めることになる。

建築と三次元の芸術には完全に正反対の性質がある。前者は特定の機能が付与された領域を作り上げることに関心を持つ。建築は、芸術の仕事であるかどうかはさておき、実用的であるべきだ。そうでなければ完全に失敗である。芸術は実用的ではない。三次元の芸術が建築の特徴のいくつかを取り入れ、たとえば実用的な領域を形作るとき、その芸術としての機能は弱められてしまう。作品に観者を小人化するほどの大きな寸法があると、それに制覇されることで形態の物理的かつ感情的な力が強化される。その代償として、作品から発想がかき消されてしまう。

新しい素材は同時代美術にとって大きな悩みの種のひとつである。新しい素材と新しい発想を混同する芸術家もいる。軽薄な安物に溺れた芸術を目にすることより酷いことはない。概して、そのような素材に魅了される芸術家の多くには、それらの素材を使いこなすために必要な精神の厳密さが欠如している。新しい素材を使いこなし、それを芸術の仕事に作り変えるには、良い芸術家でなければならない。私が思うに、危険なのは、素材の物理的なあり方を重要視するばかりに、それが仕事を司る発想そのものと化してしまうことである(別種の表現主義)。

どんな類の三次元の芸術も、ひとつの物理的な事実である。そこでは、その物理的なあり方こそが最も明白で表現的な内容となっている。構想芸術は観者の目や感情ではなく精神を引き込むために作られる。三次元の物体の物理的なあり方は、この非感情的な意図と矛盾することになる。色彩、表面、質感、形は仕事の物理的な側面を強調するばかりである。何であれ物理的なあり方に観者の注意を引き、興味を持たせようとするものは、仕事の発想に対する私たちの理解を阻む。それはそこで表現的な装置として使われているのだ。構想芸術家は、可能なかぎり物質性の強調を改善すること、あるいはそれを逆説的なやり方で利用する(発想へと変換する)ことを欲するだろう。ならば、この類の芸術は最も無駄のない手法で表明されるべきである。二次元においてより良く表明される発想は、三次元化されるべきではない。発想は、数字、写真、言葉、あるいは芸術家が選ぶ他の何らかの方法によって、より良く表明されるかもしれない。そのとき形態は重要ではない。

これらの段落は定言命法として意図されたものではない。ここで言明した一連の発想は、現在の私の思考に可能な限り近似的である。* これらの発想は私の芸術家としての仕事の結果であり、私の経験の変化に従って、さらなる変化の可能性に晒されている。私は可能な限りの明瞭さで私の発想を言明しようと試みた。もしも私の言明が不明瞭ならば、それが意味するのは、私の思考の不明瞭性かもしれない。一連の発想を記している最中ですら、明白な非一貫性が見えてきたのだから(なるべく修正しようと試みたが、その網をすり抜けたものもあるだろう)。私はすべての芸術家に構想的な形態の芸術を推奨するわけではない。ただ私にとっては、それが他のどんな方法よりもうまく機能してきたらしいのである。それは芸術を作るためのひとつのやり方である——他の芸術家には他のやり方が適している。そしてまた、私はすべての構想芸術が観者の注意に値するとも思っていない。構想芸術が良いのは発想が良いときだけなのである。

* 私は「芸術の仕事」という用語が好きではない。私は仕事を好ましく思っていないし、この用語は取り繕いのように響く。でも他にどんな用語を使えばいいのか、私は知らない。

― ソル・ルウィット

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原文:Sol LeWitt, ‘Paragraphs on Conceptual Art’, 1967
初出:『Artforum』Vol. 5, No. 10(ニューヨーク/1967年7月)

和訳:奥村雄樹
図版:上記リンクより

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