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[試訳] ハンネ・ダルボーフェン 「ルーシー・リパードへの言明」 1968


私は何らかの物事に横槍を入れることで何らかの物事を築き上げる(脱構造化—構造化—構築)。
 そのためには体系が必須となる。そうでなければ他にいかにして私はより集中して目を見開き、関心を抱き、続きを進められるだろうか? 沈思は行動で遮断されなければならない。そのとき行動は、あらゆる物事からいかなる物事でも受け入れるための手法である。受け入れ皆無=混沌。私は私の仕事を通じて、動こうと試みる。多かれ少なかれ知られている限界とまったく知られていない限界の狭間でなるべく大きな隔たりで拡張し、収縮するために。どの限界についても私には語ることができない。私はおおむねそのことを知っている。私にはただ次のようにしか言うことができない。ひとつの系列を進めている最中、あるいはその事後において、接近中であることを感じるときが私にはある。しかし、接近がひとたび起こるにせよ、起こらないにせよ、それがひとつの経験であることに変わりはない。陰と陽のどちらであれ、私はそこでそれを知る。あらゆる物事がここまで証左となっているように、陽は陰のために存在する。逆も然り。
 無限性、あらゆる物事の象徴としての円形。何が始まりで、それはどこに? 何が終わりで、それはどこに?
 私は体系と呼ばれる私のそれを再現することができない。それは過去において為された物事に左右されている。材料を構成するのは紙とペンである。私はそれらを使って、構想を描き言葉や数字を書く。それは発想を記すにあたって最も簡潔な手法である。発想は材料に左右されないのだから。発想の特質はその非物質性にある。
 物事にはたっぷりの多様体があり、たっぷりの多様性がある。だからこそ物事は変わることができる。私はいまこの瞬間において、私がこれまで為してきた物事について、そして私がいま何を為しているのかを知っている。何が次に起こるのであれ、目を見開いていよう。

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原文:Hanne Darboven - Statement to Lucy Lippard, 1968
初出:Conceptual Art: A Critical Anthology, edited by A. Alberro and B. Stimson, MIT Press, 1999
和訳:奥村雄樹

図版:Hanne Darboven, ‘Construction Drawing’, 1968, ink on graph paper, 43.2 x 60.7 cm

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