見出し画像

[試訳] メル・ボックナー 「順次芸術, 体系, 独我主義」 1967

Mel Bochner – Serial Art, Systems, Solipsism

「事物それ自体へと向かうのだ。」——フッサール

「どんな物体も決して他の物体の存在を示唆しない。」——ヒューム

「どんな事物もそれについて成り立つ言表の総覧から見出されるもの以上の何かではない。」——A. J. エイヤー

もしもすべての事物が等価で、別個で、無関係であると万全に想定できるなら、私たちには次のことを受け入れる義務が課される。すなわち、それら(諸事物)を名付けることや言い表すことはできても、それらを定義することや説明することは決してできない。さらに言えば、もしも私たちが、議論しようにも言語の特質によってそれが不可能な問いかけ(たとえばあれやこれはいかにして存在することになったのか、それは何を意味しているのか)をすべて括弧に入れるとしたら、あるひとつの物体が——ここでは芸術物体[art object]のことだが——そのような物体であることの全容はその外観のみに帰することになる。成り行きによって現状の姿を持つに至った諸々の事物について私たちに知りえることのすべては、それらの外観から直に派生することになる。

芸術に関する何らかの思考がそのように思考される理由は、往々にして、それが以前そのように思考されたからというだけのことである。芸術の正体が何であれ、それはそれなのであり、言語であるところの批評はそれとは異なる何かである。平行的な構造を生み出すことで、あるいは転置を通じて言語は芸術と折り合いをつけるが、どちらの方法も適正とは言い難い。(しかし私は、だからと言って、言語は言語それ自体についてしか語れないという考えを真実だとは思っていない。)

伝統的に、批評は次の3つの方策のどれかひとつによって成り立ってきた。「印象主義的」な批評は芸術の仕事[work of art]が観察者にもたらす作用に関心を払ってきた——個人としての反応。「歴史的」な批評は形態と技術の帰納的な進化を扱ってきた——仕事と仕事の間にあるものについて。そして「隠喩的」な批評は数多くの比喩を考案してきた——最近では科学主義へのそれを。おしなべて、芸術物体をそれ自体の物質的な個別性において——事物それ自体として——捉えることは等閑視されてきたのである。

それを試みるとなれば、ふたつの基準が重要となる。第一に、考察は具体的でなければ(事物それ自体に関する諸々の事実を扱わなければ)ならない。第二に、それは単純化されていなければ(判明した一連の事実のために提供される構造には知的な簡潔性がなければ)ならない。後者が必要とされるのは、言表のみによって事物が適切に位置づけられることは決してないからである。実際のところ、多くの場合において、事物を言い表すことはそれに不可解な地位を与えるのみである。それでも、それがもたらす諸々の可能性は、印象主義的な、歴史的な、あるいは隠喩的な方策よりも興味深いものだ。

存在する事物はどれも三次元的であり、ゆえに空間を「奪う」ものである(空間とは観察者がその内で暮らしたり動いたりする媒体として考えることができる)。芸術物体は自然物と質的な点で異なっていながらも、それらと同延的である。「侵入因子」であるということが、すべての芸術の〈非自然性〉を基礎づけているのだ。

このことは、今日において為されている特定の芸術に関する検討に直結している。様式性あるいは隠喩性を土台にしても、それらの仕事について議論することはできない。それらに共通して備わっているのは、際立った人工性[artificiality]であると考えられる。それらが用いるのは明瞭な可視性と簡潔な秩序を持った構造である。何人かの芸術家たちは秩序それ自体を芸術の仕事としている。他の芸術家たちは複数の異なる水準において秩序を操作しながら、ひとつの構想的[conceptual]かつ知覚的[perceptual]な論理を生み出していく。そうした異なる類の秩序について、そしてその結果として生み出される芸術の仕事がそれぞれの環境において存在する仕方について、検討を試みたい。

カール・アンドレは可換部位[modular]による厳密な体系[system]を自身に対して設定し、その枠内で仕事を進めていく。彼が使うのは、煉瓦、発泡スチロールの厚板、焼結磁石、コンクリート製の直方体、木製の梁など、商品として入手することのできる利便的な物体である。それらの共通項は、密度、堅牢性、不透明性、構成的な均質性、そしておおよそ幾何学的な形を持つことである。彼の作品[piece]には多種あるが、それらは先験的に為されたいくつかの決定によって規定されている。それぞれの作品で使われる物体はいつも一種類のみである。どの作品も、それが生起する場所に備わる特殊な条件にあわせて個別に着想[conceive]される。そこでは、算術的な手法を用いながら、作品ごとに単位[unit]が指定され、その配置は直交的な格子に沿って展開する。(「構成」よりも「配置」という語の方がより好ましい。「構成」が通常の場合において意味するのは、ある仕事を最終的な状態——そのときそれは事前には不可知の特質を得ている——に行き着かせるために、諸々の部分の寸法、形、色、位置などを調整することである。「配置」が示唆するのは、確定的な特質を持つ諸々の部分であり、事前に構想された全体の理念[notion]である。)アンドレの作品では、単位を凝集させるための手法として重量(重力)が主に使われる。このこともまた、先験的に規定された条件のひとつ——接着剤および入り組んだ接合を用いないこと——に起因している。したがって必然的に、床に置かれた作品の外観は、列あるいは平板を思わせる水平的な形状となる。発砲スチロールの厚板で作られた初期の作品は大型であり、空間を消費していた(発砲スチロールの主要な特質は「膨れ上がっている」ことである)。しかし近年の傾向として、アンドレの仕事はより節制的になってきている。近年の作品では、高さが取るに足らない次元となっている。ひとつの要因として挙げられるのは、接着を伴わない堆積の不安定性だろう。いずれにせよ、作品は観察者の目線より低いところに存在することになる。それらは「見下ろされる」もの、共通の空間への侵犯が薄弱なものとして作られる。しかしながら、こうした頑固な薄弱性は本質的に不可避であり、その即実性[matter-of-factness]こそが諸々の作品を複数の意味で〈臨在〉させるのだ。

アンドレのような芸術家たちは(すべての芸術家がそうであるように)個別的な方法論の点でより一層の突出を見せる。彼らの方法論は、過去の方法論との関係で言うなら体系的[systematic]と呼ぶしかないものである。一般的に、体系的な思考は芸術的な思考の対極にあると考えられてきた。体系を特徴づけるのは、規則性、一徹性、実行における反復性である。体系は整然としている。体系は一貫性と継続性によって特徴づけられる。ひとつの体系を成り立たせる諸々の部分が個別に重要性を湛えることはない。それらは、全体に同梱された論理に沿って用いられるとき、はじめて妥当性を持つのである。

漸進的[progressional]なあり方に基づく手順を用いた最初の芸術家のひとりはダン・フレイヴィンである。このことを顕著に表す例として、1964年の《唯名論的な三者——オッカムのウィリアムに》[Nominal Three—to Wm. of Ockham]が挙げられる(「必要以上に実体物を増やすべきではない」——オッカムのウィリアム)。この作品に組み込まれた単純な順次体[series]は、次の図式において視覚化できる。すなわち(1+[1+1]+[1+1+1])である。

しかしながら、疑物体的[quasi-objective]な議論に対してさえ、フレイヴィンが折り合いをつけることは難しいだろう。彼は幅広い数量あるいは寸法の蛍光灯を平行的および隣接的に置くわけだが、それ自体は「きっぱり」としていて明白ではあるものの、結果はそれと真逆の性質を帯びているのだから。「輝かしい」結果によって諸々の困難は混濁し、悪化してしまうのだ。

アンドレとフレイヴィンはいかなる点においても環境芸術[environmental art]に巻き込まれてはいないが、とはいえ両者ともに、部屋なるものの現象学への鋭敏な感性を露見させている。アンドレによる床の偽造、そしてフレイヴィンによる部屋の隅の崩落は、「部屋性」に関する諸々の単純な事実を芸術的な作動性を持つ諸々の因子へと変換する。最新の展覧会(1967年1月)において、フレイヴィンは可換部位を8フィート、6フィート、2フィートの長さを持つ冷涼な白色蛍光灯のみに限定した。それらが幅広い組み合わせにおいて部屋の隅あるいは壁の中央に置かれていた。交差する影によって、そして画廊のあらゆる現象的な要素——タイルが敷かれた床、仕切り壁、立てかけられた扉、過剰にバロック的な暖炉——を激烈に強化させる光によって、固定具それ自体も忘却されていた。その帰結として、部屋はあたかも脱物質化された[dematerialized]かのように見えた。そこから生起した空白は、固定具の配置と同じように、作品の不可欠な一部となっていた。気体のように広がるフレイヴィンの光は言表に尽くし難いものであり、まさに――いま一度、空間をひとつの媒体として捉えるならば――〈空間〉と呼ぶほかないものである。

15年ほど前まではどんな光も点として現れていた。太陽を含めて、あらゆる光源は単一的であり、点状の起源から放射されるものだった。蛍光灯が増えることで知覚的な変革が生起したのである。それはおそらく電球の発明よりも深い意義をもたらした(電球は明暗対照法的な影を消すことはなかった)。いまや光は直線において生起し、影を忘却させている。実質的に、それには包囲することが可能になった。これはフレイヴィン(彼はいわゆる「光芸術家[light artists]」と同じようには光を「使用」しないが)にとって重要な事実である。そうでなければ、彼はあんなにも著しい人工性と非自然性(ベルトルト・ブレヒトが「異化効果」と呼ぶもの)を獲得できないのだから。


「私の経験という語り口はもちろん誤称である。何であれ諸々の経験とは、ただ成り行きによって起こった諸々の経験的な事実にすぎない。それは著しく非人物的[impersonal]であり、いかなる意味においても私が私有するものではない。実際のところ、諸々の経験が何らかの形でひとつに配列されたものこそが「私」であるという意味から外れたところで、「私」という単語が意義を持つことはない。」——J. R. ワインバーグ

独我主義者にとって、現実は充分ではない。彼は自己の内的な閉域の外部に何かが存在することを否認する。(サルトルは独我主義をそれが「煎じ詰めれば私の外部には何も存在しないと述べている」ことから「暗礁」と呼ぶ。ショーペンハウアーは独我主義者を「難攻不落の封鎖された家の中で黙り込む血迷った者」として語る。)思考の境界の内側から眺めるとき、現実の乱雑な諸次元はその外延としての質を喪失する。それらは平坦化し、静止する。高度な抽象性と秩序性のもとで思考を操作するという点で、順次芸術[serial art]はそれと同じように自己充足的かつ非参照的である。多様なアーティストたち——エドワード・マイブリッジ、ジャスパー・ジョンズ、ラリー・プーンズ、ソル・ルウィット、ドン・ジャッド、ジョー・ベール、ロバート・スミッソン、ハンネ・ダルボーフェン、ドロシア・ロックバーン、エド・ルシャ、エヴァ・ヘス、ポール・モーゲンセン、ダン・グラハム、アルフレッド・ジャンセン、ウィリアム・コラコスキー、そして私自身——が順次的な方法論を用いてきた。順次性の前提には次のような発想がある。単一の作品において、先行する単数もしくは複数の項目(区分)からの数的もしくは既定的な派生化(漸進、順列、回転、反転など)に基づいて、複数の項目が連続性[succession]の状態にあること。さらにそこでは、発想を執り行うことで得られる結末が、嗜好や偶然に基づいた調整を施されることなく、それ自体のままで仕事となる。この方策を用いる芸術家たちを様式や物質的な質で一括することはできない。仕事がどんな形態を取るかは重要ではないのだから(何人かの芸術家たちは「事物」の制作を終了している)。この手順と肩を並べる芸術の試みは音楽にしか見当たらない。J. S. バッハの《フーガの技法》やシェーンベルク、シュトックハウゼン、そしてブーレーズの仕事には、人物的[personal]な判断決定ではなく規定的な論理の厳密な適用に基づいて芸術の仕事を作り出すという点で、類似の発想が見受けられる。

ソル・ルウィットの順次的な仕事は、とりわけ平坦で非感情移入的な位置を取っている。彼が手がける複数の部分で成立した複合的な構造体は、個別の人物性[individual personality]に基づく因子を可能な限り除外しようとする厳格な論理体系の帰結である。彼の仕事は制作者と観察者の双方と離れた「世界内事物」であり、その境界線を強化するものとしてひとつひとつの体系が奉仕している。

先日ルウィットが西海岸で開催した展覧会(ニューヨーク市のドゥワン・ギャラリーで彼が展示した提案の1/4に相当する)は順次性の興味深い一例となっている。まず、全体を規定するために一式の条項が作られる。第一の要因として、床の上で、面を持たない開いた枠としての正方形がより大きな正方形の中央に置かれている。比率としては1:9である。それは正方形の内側の正方形へと延長される。比率としては1:27である。次に作成される制限は、変数としての3種類の高さである。

1)低い——今回の集合体はすべて同種の角棒から構築されているが、その角棒の交差区域における高さ
2)中ほど——ひとつの立方体の高さ(恣意的なもの)。
3)高い——2の3倍の高さ

そして、開いた枠のみ、閉じた量塊のみ、あるいは両者を使った可変的な組み合わせが、4種の可能な二項式——内側が開いた/外側が開いた、内側が開いた/外側が閉じた、内側が閉じた/外側が開いた、内側が閉じた/外側が閉じた——において思慮される。この工程にはいかなる数学も関与していない。喜ばしいことに、芸術と数学との間にはほとんどもしくはまったく繋がりがないようである。数字の使用は、一般に、規則を導入するための利便的な装置、時間と空間の両面において適用の外部にある論理としてである。

ルウィットの名において為されたものと遭遇するとき、人はそこにひとつの秩序があることを即時的に直観する。しかし、それを把握あるいは究明するための方法はどこにも露呈されない。むしろ人はそこで与件[data]——線、接合部、角度——の多量さに圧倒されてしまう。仕事の構想[conception]を厳格に制御すること、そして芸術の仕事が持つべき見た目についての既定的な発想に合致させるための調整を決して施さないことで、ルウィットは独自の知覚的[perceptual]な分解に行き着く。そこでは構想における秩序が視覚的な混沌へと砕かれるのだ。中央に置かれた一連の部品は共有された空間の大半を強奪しているが、それらの総体的な量塊(角棒それ自体の量塊)は取るに足らないものだ。それらは現実において別個で無関係的な事物として即時的に臨在しているが、このことは私たちがそれらの周囲を歩き回ることで断定される。もっとも注記すべきは、それらが瞬間瞬間において(他の視点からの眺めが心中で集計されることで)絶え間なく空間的な見られ方をすること、そしてそれでも尚、どの瞬間においても平坦でありつづけることである。

一部の人々は、この仕事には上述の方策に不足している「詩性」あるいは「力」もしくは他の何らかの質が備わっていると言うだろう。そのような物言いは正当なものである。しかし、そうした側面は個人[individual]にとってのみ存在するため、言葉の慣習的な意味を用いてそれを伝達することは難しい。そしてまた一部の人々は、以上を踏まえてもなお、自分たちは退屈していると言い募るかもしれない。もしもそれが事実だとしたならば、その退屈さは、彼らが一連の事物を神聖なものではなく自立的かつ中立的なもの——おそらく実際にそうなのである——として眺めるように強要されたことの産物かもしれない。

-

原文:Mel Bochner – Serial Art, Systems, Solipsism
初出:『Arts Magazine』no. 5+6(ニューヨーク/1967年夏)
訳出:『Minimal Art: A Critical Anthology』(ニューヨーク/1968年ロサンゼルス/1995年)に収録された改訂版

和訳:奥村雄樹
図版:Mel Bochner, 36 Photographs and 12 Diagrams, 1966

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?