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何者にもなれない者、海外Publicに立つ


ごきげんよう、私は何者にもなれない者です。
みなさんは許されていますか?
「許されていなければならない」と感じること、ありませんか?
(VRChatでの話ですよ。)
私は、あります。
さて、これはVRChatでの”アイデンティティクライシス”との向き合い方(私の場合)の話です。


つまり

散文が過ぎるので「つまるところ」を最初に。
私の言いたいことは
「海外Publicはいいぞ」
これにつきます。
怖いところというイメージはありますけれど、そりゃ仕方ないんですよ。
海外ですしね。
でも海外なんですから自分探しにはうってつけなんじゃないですかね?
「何者かにならなくちゃ」という考えに囚われた時は、行ってみて損はないと思いますよ。
あるいは、VRChatに飽きてきたときとか、嫌気が差してきたときとか。
死ぬわけじゃないんだし。
責任は取れませんけど。
以下、散文。

先行きは暗いシス

―SNSの台頭により、自己同一性の確立に悩まされる若者が急増している。
多分、こういった研究なりエッセイなり言説を見つけることはさほど難しくないでしょう。
実力さえあれば、魅力さえあれば有名になれる。
「何者か」になることができる。
それはSNSの大きな利点でもありますが、機会の平等は、時に暴力的です。
「お前が何者にもなれないのはお前の能力不足のせいなのです。」
「お前より若いのにすごいやつは掃いて捨てるほどいるのです。」
「お前より病んでるのにお前よりすごいやつも沢山いるのです。」
だって、機会はあるはずなのですから。
紙パックのリプトン飲んでるような奴らが、一丁前に「私は何者なのか」とか「私の価値は」とか、そんなことを考えてやがるのです。
いじらしいですね。
まあ、中二病と同じで所詮は一過性のもの。
基本的には「別に何者にもなんなくてもいっか」と諦めることを憶えます。
現実に於て、はですが。

VRChat

VRChat民はすごいのです。
平気な顔してアバターを作るやつ。
平気な顔してワールドを作るやつ。
平気な顔してイベントを主催するやつ。
平気な顔してツールを作るやつ。
しかも全員病んでる(多分)。
多くの人は病むこともままならぬというのに、病んだ上ですごいことをしているのだから彼らは多分2倍すごいのだ。
ああ、これがアイデンティティクライシス…。
VRChatを始めて早12年、私は未だに「何者か」にはなれていません。
その「何者か」に「何者にもならなくていいんだよ」と言われても納得できようもないのです。
別になろうと思って始めたわけではないけど、ならなきゃならない気がするんです。(しなきゃいけないことを下さい!)
まあ面倒くさいんでなんにもやんないんですけどね。
かくいう私もその一人。
アイデンティティクライシスに苛まれるもやる気は有限だし、病むに病まれぬ病み損ないとして只漫然と大健康な日々を送るばかり。
どこかに気晴らしでもあればいいのだが…。

何者にもなれない者

さて、ここからが本題です。
皆さんは、街を歩いています。
町じゃないですよ。
「街」です。
詳しい定義は知りません。
とにかく、大都会を想像してください。
その一瞬において皆さんは、いつもと同じように何者でもありません。(皆さんがいつも何者でもないことを前提とする)
ただそれと同時に、「何者でもないものとしてあるべく何者でもない」状態にもあるのです。
もう二度と会うこともないだろう、袖を振り合うこともないレベルの人間が何十人、何百人。
皆、自分の用事で忙しいのですから、他人のことに気を向けている暇はありません。
そんな場で「何者か」になりたいだなんて思うやつは、まあ、碌なことにはならないでしょうね。
街では皆が「何者でもない」。
街は、何者にもなれない者達に寛容なのです。
そこに劣等感を感じずに済む場所なのですから。
そして、海外PublicこそがVRChatにおける「街」なのです。

海外Publicに立つ

まあ、「街」と言うほど賑わっているかどうかはさておき。
よく「スラム街」とか言われたりしてるので、まあある種の街なんですよきっと。
そこで「何者にもなれなくてもいい時間」を過ごすことの心地よさを、私は知っているのです。
狭苦しく息の詰まる部屋から抜け出して、波のごとき群衆に身を投じてみませんか?
海外Publicは寛容です。
様々な言語、あるいは音楽が飛び交う混沌とした状況。
あるいは、視界から入ってくる情報量の多さに対して
意外なほど静かだったりもします。
同じワールドでも、インスタンスが違うだけで海外Publicはその表情を大きく変えます。
ワールドが変われば、尚更。
Friends+や日本のPublic等と違い、いつも活気のある海外Publicは、日々新しい客が訪れ、去っていく場所なのです。
偶に「あぁ、前にも」といった人が居たりもしますが、基本的に見かけるのは一度も出会ったことのない人々です。
そして、目が慣れてくると見えてくるのは自分と同じようなコミュニケーションを取らないユーザーの存在。
ここでは、独りであることに負い目を感じる必要はないのです。
どうしようもなく惨めな気持ちになったときも、そこに行けば「何者でもないもの」として「海外Public」の一部として存在していられる。
そこにいるだけで、知らない言語の会話を聞き流しているだけでいいのです。
それが存在意義になり得るかどうかは、わかりません。
ただ、私にとって居場所であることは確かなのです。
この街で、「何者でもないものとしてあるべく何者でもない」者として私は存在を許されている、そう感じることができるのです。

私はアイデンティティ・クライシスに陥った時、Japan Shrine(By ITOAR)でただボーッと立って、周りの会話を聴いたりするのです。
ここは私のVRChat生活が始まった場所であり、最初のコミュニティと出会った場所でもあります。
英語と中国語と日本語が入り交じる、海外Publicでは結構穏やかな場所です。
日本鯖で立ったりもしてますが、基本的には海外の方が多数であることが大半なので私的には「ギリギリ海外Public」という認識です。

ここが私の、アナザースカイ。

もしかしたらこれは、ただの愛郷なのかもしれません。
「何者にもならなくてもいいから」というのは思い違いで、単に、アイデンティティの一部をこの場所に託しているから居心地が良いだけなのかもしれません。
それでも一つ、確かなのは、海外Publicを訪れると自分の中で薄れかけていた「VRChatはすごい」という感情が蘇るのだということです。
皆さんがいつも遊んでるVRChat、実は日本だけじゃなくて世界中の人々とも繋がることができるんですよ?
周りの人が話してること、一ミリもわかんねーんですよ?
話すつもりなんてなかったのに話しかけられたら無視するのも忍びないからってなんとなく会話が始まってなんか楽しくなっちゃったりするんですよ?
怖くない怖くない!
飛び出してみよう、海外Publicへ!
本当に絶対に感動するよ!

良い枯れ木ライフを。


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