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もういいよ。

昨日は、
一つの出来事を
ただ過ごしてしまうのでなく、
色々な角度から見てみると、
沢山気が付くことがある。
と実感したことを
書きました。

またも
日々の出来事を
書いたけれども、
「スキ」を
してくださって
ありがとうございます。

昨日書いた中に、
私は周りに気を使って
自分が我慢すれば丸く収まるから
我慢してしまう
ということがありました。

それが私の持っている、
「べき」や「はず」という思い込み
という偏りです。

何故、思い込みによる偏りを
持つことになったのか考えてみました。

やはり、
親との関係性の中に見つけたのですよね。
原因と思われること。

親がすべて悪い、
ということではないのです。

こちらのことを
思ってしてくれていて、
愛情が無いわけではなく、
ただミスマッチを起こしていただけ。
単純にそれだけ。

私が何かを質問された時に、
私が答えようとすると親が先に答えるのです。

私が質問されたのですから、
私が私の言葉で答えたいのです。

そして、
親が私を遮って答えた私のことは
全部間違えているわけではないのですが、
「そうじゃないんだけれどな。」
と思う部分もあるのです。

ですが、
私が「それはちがう。」と言ったら
どうなるでしょう。

言ってもいいのかもしれないですが、
他人の目の前で親に対して
「それはちがう。」
と言って波風を立て、
困らせることになるのではないかと思って
全部違っているわけではないから、
とあえて訂正しませんでした。

親に叱られているときも、
納得がいかずに反論すると
更に火に油を注ぎ、
無意味に時間を消費するだけだったので
何も言わなくなりました。

何も言わずに、
聞いているだけでも
なすがままにされているだけでも、
「聞いていればいいと思っているだろう。」
「されるがままにされていれば済むと思っているのか。」
と激高されることもありましたが、
反論したり、抵抗したりするよりは、
自分がじっと我慢していた方が、
効率が良かったのです。

親は親なりに、
子どもという自分の遺伝子を受け継ぐけれど
自分とは異なる個体であるということが
認識しづらい中で子育てをしてくれたと思います。
それは大変なことであったと思います。

子どもは自分の遺伝子を受け継いでいるから、
自分の言うことを容易く理解してくれて、
自分と同等の能力を持ち合わせていると
錯覚して期待してしまう。

愛されていないとは思っていませんでしたが、
愛情のかけ方が私という個体にとっては、
ミスマッチだったのだろう。
というのが現在の私の感想で、
責めるつもりはありません。

衣食住と学びについての費用も
親が認めるジャンルに限られましたが
充分すぎるほどに捻出してくれたましたし、
私が欲しかった形ではないにしても
愛情はかけてくれていたと思っているので、
感謝しています。

そういった状況でしたから、
自分の考えや言葉を我慢して
飲み込むことを息をするように当たり前に
やってのけるようになっていたのかもしれません。

こういった癖のような、
子どものころに身に着けた
自分なりの処世術が
その人の思い込みによる偏りに変化して、
人に対しても
「こうあるべき。」
「こうであるはず。」
と押し付ける形のこだわりになって、
かえって自分自身を苦しめることがあります。

ただ、
それをすべて否定する必要もなくて、
「私はこうしたい。」
という価値観や人に押し付けないこだわりに変えられれば、
人の価値観やこだわりも許容できるようになります。

「べき」や「はず」と言った自分自身を苦しめてしまう、
思い込みによる偏りを解消するヒントが、
子どもの頃の親との関係性の中に
隠れていることもあります。

もし自分自身の中に、
「べき」や「はず」があって
苦しいときは幼少期を振り返ってみると
解決の糸口が見つかるかもしれません。

昨日書いたことを振り返って、
今日はそんな風に思いました。

今日も最後までお付き合いいただき、
ありがとうございます。

少しでも誰かの気持ちを軽くするお手伝いが
出来ていたら嬉しいな、と思っています。


『許しとは、許さないという思いから生じた心の空洞を癒すこと』
(ジャンポルスキー「ゆるすということ」より)

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