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マリー・ルイーゼ・カシュニッツ「その昔、N市では

※ネタばれあり

ドイツの作家マリー・ルイーゼ・カシュニッツは1901年生まれ。1925年に考古学者であり美術史家でもある男性と結婚し、夫の任地を転々とする。
ナチ政権下もドイツに留まり、戦時中はギリシア神話の世界に没頭する……。
彼女の作品は、夢や空想、霊的な世界が現実を凌駕するという点が特徴的だ。それは彼女が戦時中に神話世界に没頭していたことと何か関係があるのだろうか。
あと、圧倒的な淋しさや孤独感のようなものも感じる。これは、この短編集に収録された作品が、夫が亡くなってから5年後ぐらいに書かれたものが多いからだろうか……。

短編集「その昔、N市では」の中で一番好きなのは、第二次世界大戦時、収容所行の列車から逃げたユダヤ人の少女バルバラが、姉(収容所で死亡)の夫の家に逃げ、身を隠しながら暮らすという内容の「ルピナス」だ。
ユダヤ人の少女を匿うことになった義兄は、怪しまれないよう党に入り、突撃隊にも入隊する。彼は時々、褐色の制服を着る。
褐色の制服を着ている男の家に、ユダヤ人少女が隠れている……。

彼らが住む小さな町は要衝の地から離れているため、空襲は免れていた。
しかしとうとう爆撃機編隊が町に爆弾の雨を降らせるようになる。
義兄は地下に避難することもなく、部屋を暗くして窓を開け放ち、高射砲による迎撃をじっと見つめている。自分やバルバラの命などどうでもいいように……早く負けて戦争が終わればいいというように……。

1944年6月6日、アメリカ軍がノルマンディーに上陸した。
義兄は、真夜中を過ぎてから酔っぱらって帰って来るようになった。
バルバラと戦況について話しても、「そんなにすぐには終わらない」と言った。
一週間分のパンを一日で食べてしまった。
落ち込み、浮かない顔をするようになった。
バルバラに憎しみをぶつけるようになった……。

夏の終わり、バルバラは家を抜け出し、線路まで歩き、列車の前に飛び出す。彼女は身元がわからないまま、安物の棺に納められ埋葬された。

義兄は、いざ負けが見えてくると、それに抗う気持ちが芽生えたのだろうか……。

カシュニッツの作品には、このバルバラのように忽然と消えてしまった人々が、霧の向こうから、影になって、夢になって、霊になって、怪物になって、ひっそりと戻ってくるような雰囲気がある(表題の「その昔、N市では」はまさにそんな作品だ)。

戦時中、爆弾の雨は、政権の支持者も反対派も子供も老人も関係なく降りそそぐ。
犠牲者は、身元確認の為に集会場や道端にずらりと並べられる。
愛する者の変わり果てた姿は、残された者の心に深い衝撃を残す。
その傷にいくら蓋をしても、夢の中で、幻想の中で、死者は語りかけてくる。

ある日、死者が家に帰ってくる。影となって、夢となって、怪物となって。
生前の面影はあるが、どこかが「違う」。
死者の肌や目は、暗く濁っている。
恐ろしくなり、家から追い出す。
ドアを閉める。
部屋が静まり返る。
淋しくなって、変わり果てた姿でもいいから側にいて欲しいと思い、ドアを開ける。

そこには誰もいなかった。

……こんな雰囲気の作品だと思う。

孤独や淋しさ、そして戦争の影がある灰色の作品が好きだ。

そういえば、「ルピナス」の義兄がバルバラに憎しみをぶつけるようになり、最終的に「とうとう彼女のブラウスを引き裂いた」んだが、引き裂いた後どうなったかは詳しく書かれていない。翌日バルバラは夢遊病者のようにふらふらと線路にまで歩いていき、列車の前に飛び込む。

バルバラは強姦されたのか?は読者の想像に委ねられているんだが、私はされて“いない“と思いたい。

密かに義兄のことを愛していたバルバラは、亡き姉に髪型を似せ、義兄に気に入られるよう腐心した。

しかし、いくら似せても姉が帰ってきたわけではなく、単なる似姿に過ぎない。

私がバルバラの死までの出来事を書くとしたらこうする↓
精神的に混乱していた義兄はバルバラのブラウスを引き裂き、乱暴に抱きしめたが、突然夢から醒めたように突き放し、ささやく。

「違う」

姉の代わりになりたかったバルバラを死に向かわせたのは乱暴な行為などではなく、そんな言葉だったのではないか。

そう思いたい。

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