演奏会評記録① NHK放送二十五周年 邦人作品發表演奏会 遠山一行(1950)

 かねてから日本放送協會が募集中であつた管絃樂作品の發表が三月二十一日の夜、日比谷公會堂で行われた。當日行つて見たら、この前のアメリカ音樂の夕の時と同様、公會堂の前に入場者が列をつくつていた。全體としての入りは結局六・七分という所だつた様だが、例え入場無料にもせよ、邦人の發表会に千五百人ばかりも人が集まるという事はともあれ、一時代前には考え得ぬ所だつたろう。それに又、この企畫に對する應募作品が五十三曲にのぼつたという事もやはり一寸した驚異に相違ないので、我が國の創作運動も漸くある種の社會的基盤をもつ端緒を得た様に思えた。
 日本の作曲活動は、先人達の努力によつて技術的に歩一歩と向上を重ねてこゝまで到達して來たわけだが、これを今後いわば内容的に正しく力強い意欲の上に乗せて行く爲には、どうしても更に廣い社會層の支持と關心を得て行かねばなるまい。今回の入選者が、いづれも若い、そして又同時に作曲家として既に名をなした人であつた事は、一面創作界が ー特に若いゼネレイションがー はつきりと素人藝を脱して、技術的傳統の一里塚を築いた事を證據立てると共に、更にもつと廣い層にこうした技術が浸透して無名の新人が立派な成績を収める様になるのは、も少し時をまたねばならないという感も亦否定出來ない所であろう。しかしそれにしても今日の様な多數の應募者の存在はこうした日が決して豫測し難い程遥かな夢ではない事をも同時に信じさせるに足ると言つてもよいわけだろう。
 それはさておいて、當日の作品であるが、たつた一日耳で聽いただけで譜面に接する機會もないのであるから正直な所、唯でさえ物憶えに自信のない僕には細部に亘つての技術的發言は到底むつかしい。前に新聞に書いた批評などを手掛りに當日の感想を述べる以外に仕方がない。
 佳作の二篇は卒直に言つて一寸受取り難い。特に泉晃弘氏の交響組曲「祭典」は技術的に見てかなり決定的な缺陥があると思う、日本的音階を使用する事は決して不賛成ではないが、そうした場合に起る和聲學的な困難をどうつき抜けるか、そうした面での探究と努力が必ずしも充分とは言われず、部分的な旋律感の面白さに頼つただけでは十五分の管絃樂曲は構成し切れぬだろう。
 これに比べれば高田信一氏の「交響的二樂章」の方は技術的にずつと安定したものを感じさせ、特に第二樂章のフーガ的な部分等では特賞の二人にも見られぬ力量を證明していながら、全體としては恐らく短期間に書き流したのだろうと思われる様な、安易さがあつて、統一した構成感が得られない。特に(前にも書いた事だが)第一樂章のかなり表情的なテーマが、動機的な緊密な處理をうけずに展開部その他に反復され、又調性的な變化にも充分な配慮もはらわれていないので、部分々々としては比較的音が良く鳴つていながら全體として感興の薄いものとなつてしまつた。管絃樂法についても同様な事が言えるのであつて、他の人以上の經驗と力量をもつていながら充分に考えて書かれた作品と思えないというのが正直な印象である。
 特賞の二作は流石にそれぞれ納得の行く所があり、現在の日本の管絃樂作品として、勿論文句なしの第一級とは言わぬとしても、少くもコンクールの入賞作品などのレヴェルを超えたものであると考える。
 二曲の中僕としてはどちらかというと團伊玖磨氏の交響曲イ調をとりたいと思う。構成的に一番がつちりとしていて、本格的なものへの努力が強く感じられる故である。中世旋法に依つている點も単なる色彩的効果を求めたものでなく、審査員の發表にもある様な「内容的なもの」の表出として充分に合理性を認め得るし、その上での技術的困難をまともに處理して和聲的にもかなりの豊かさと厚みを與え得た點は賞されてよいと思う。團氏の最近の作品にはいわば少し力み過ぎて例えば和聲の變化や内聲の動きが不必要に複雑化し、反つて錯綜した感を與える様な點がないでもなかつたが、この作品ではこうした缺陥からかなり救われているとはいうものの、も一歩すつきりした簡明さが欲しいという氣はしないでもない。決してモダニズムと手軽に妥協しろというわけではないが、リズム感や管絃樂法に於て彼等がつかみとつた精華を利用する事がやはり必要な事ではないか。
 芥川也寸志氏の曲については要するにそれと逆の事が言いたいのであつて、アイディアの新鮮な魅力や、それを生かしている管絃樂の色彩的な効果は氏の才能を思わせるに充分であるが、發展的な手法が若干手軽な感がなくもない。殊にロシア現代作家の影響が著しいのは習作期の若い作家として必ずしもとがめるに當らぬ事であるし、なにもドイツ的な観念的な重さをのみ音樂的なイデーの潔さと考えるわけではないのだが、やはり全體としても、一筋に通つた強い主體的な力を感じさせないのは充分に反省の餘地はあるだろう。
 終演後、この四曲が日本の作曲の水準を示すのでは一寸寂しいですねと言つた人があつたが、僕は例えばアメリカの現代作品に比べて必ずしもそう悲観したものとは考えなかった。唯はつきり言える事は、管絃樂と言う媒體を通しての音樂的思考力が、例えば歌曲の場合などに比してかなり見劣りのする事で、それは日本人の昔からの音感の傳統の問題であるにしても、しかしやはり、この種の作品が實際に音になる機會が少ない事が大きな原因であるに相違ない。だから、この様な企畫がNHKのみならず其の他の企業體によつて、もつともつと多く行われなければなるまい。
 猶又、今回の審査員の構成では、やはり思い切つてモダーンな手法のものは恐らく若干不利な立場にあつたに相違ないと考えられ、そうした事も今後は考慮され改善されてしかるべきだろう。

音楽芸術1950年5月号より
※文字については極力当時の漢字を使用した。

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