3 複素構造の変形について

小平先生の業績の一つとして、複素構造の変形理論というのがある。複素構造の変形の基礎理論は、小平先生その人による、「複素多様体論」というテキストにまとめられている。筆者は、複素構造の変形理論について研究した経験があるが、小平先生のテキストは読んだことない。またその基礎理論を学んだこともない。それでも、複素構造の変形理論に関する研究は、一応ではあるが、できたのである。その経験をもとに、今回は、あまり予備知識を必要とせず主張を理解できる複素構造の変形理論に関する研究課題を述べてみよう。

 まず簡単にコンパクト複素多様体の族について定義してみよう。コンパクト複素多様体$${\Xi}$$から、$${0\in\mathbb{C}^m}$$を中心とする開球$${\Delta \subset \mathbb{C}^m}$$への固有正則なしずめこみを、コンパクト複素多様体の族という。この時、ファイバーである$${X_t}$$はすべて同じ次元のコンパクト複素多様体であり、微分多様体としては微分同相であることが知られている。もちろん、任意のコンパクト複素多様体の自明ではない族が定義できるのかどうかは分からないが、それは各論になるのであろう。

 実は、これだけで、複素構造の変形理論の未解決問題を理解することができる。その問題設定の基礎をまず述べる。

定義3-1
(1)$${X_t, t \in \mathbb{C}}$$を$${X=X_{t_0}, t_0 \in \mathbb{C}}$$の任意の複素構造の族とする。$${X_{t_0},t_0 \in \mathbb{C}}$$が何らかの性質$${P}$$をもつとし、$${t_0}$$に十分近いすべての$${t}$$に対して、$${X_t}$$は性質$${P}$$をもつとする。これが$${X=X_{t_0}}$$の任意の複素構造の族に対して成り立つとき、性質$${P}$$は$${X_{t_0}}$$の複素構造の微小変形で開いている、あるいは安定であるという。
(2)与えられた性質$${P}$$に対して、任意の複素構造の族$${X_{t},t \in \Delta  \subset \mathbb{C}}$$に対して性質$${P}$$が次の性質を持つとき、$${P}$$は複素構造の変形に対して閉じているという。つまり任意の$${t_0\in\mathbb{C}}$$に対して、任意の$${t \in {\Delta\backslash{t_0}}}$$で$${X_t}$$が性質$${P}$$を持ち、かつ、$${t_0}$$においても$${X_{t_0}}$$が性質$${P}$$をもつとき、性質$${P}$$は複素構造の変形に関して閉じているという。$${X_{t_0}}$$を考えているコンパクト複素多様体の変形極限とか言ったりすることもある。

 複素構造の変形で、もっとも有名なのは、コンパクトケーラー多様体のケーラー性が、複素構造の微小変形で開いている、あるいは安定であるということであろう。これは、複素構造の変形理論が生まれた時に、小平-Spencerにより証明された。この結果以降、ある種の幾何構造が複素構造の微小変形に関して開いているかと問うことは基本的な研究課題となった。たとえば、次の結果が知られている。

定理3-2
balancedコンパクト複素多様体は、複素構造の微小変形に関して安定ではない。

定理3-3
strongly Gauduchon多様体は、複素構造の微小変形に関して安定である。

 定理3-2に関しては、最初、ツイスター空間に関して例が得られたようであるが、今では、冪零多様体を使って、簡単に例示することができる。定理3-3の証明は容易である。

 また次の発見は意外な事実としてとらえられたようである。

定理3-4
クラスCのコンパクト複素多様体は、複素構造の微小変形に関して安定ではない。

 どうして意外なのかというと、クラスCというのは、コンパクトケーラー多様体と双有理同値なので、かなり似た存在であると考えられるからである。しかし、それは代数幾何学的な発想であり、解析的には、ケーラー性とクラスC性というのは、大きく異なっているのかもしれない。定理3-4はツイスター空間で例示された。今でもその例しか知られていない。複素構造の微小変形でクラスCが壊れるのは、ありふれているのかどうか、興味のあるところである。

 一方で、複素構造の変形に関して閉じているか否かを考える問題は、一般に非常に難しいものが多い。まず、次の結果は、一部の人にはよく知られているであろう。

定理3-5
コンパクトケーラー多様体は、複素構造の変形に関して閉じていない。

 これは広中の例として知られている。広中先生は、射影代数多様体の変形極限が、非ケーラーになりうることを例示することにより、コンパクトケーラー多様体と微分同相なコンパクト複素多様体が必ずしもケーラーとはならないことを示した。広中の例により得られるコンパクト複素多様体はMoishezon多様体となっている。そこで射影代数多様体の変形極限がMoishezonかどうかが問題になるが、これはPopoviciにより、より一般的な形で肯定的に解決された。

定理3-6
Moishezon多様体は、複素構造の変形に関して閉じている。

 しかし次の問題は、一見、定理3-6の簡単な一般化ではないかと思われるのであるが、未解決である。

 予想3-7
クラスCコンパクト複素多様体は、複素構造の変形に関して閉じているであろう。

 コンパクトケーラー多様体の変形極限がクラスCになるかどうかも分かっていない。もし非ケーラーで非クラスCのbalanced多様体の微小変形がコンパクトケーラー多様体になる例が見つかれば、予想3-7は否定的に解決される。次の定理はそのヒントになるかもしれない。

 定理3-8
$${\partial\bar{\partial}}$$多様体は、複素構造の微小変形に関して安定である。

 $${\partial\bar{\partial}}$$多様体とは、$${\partial\bar{\partial}}$$-lemmaを満たすコンパクト複素多様体のことである。クラスCのコンパクト複素多様体は、すべて$${\partial\bar{\partial}}$$多様体である。したがって、いささかいい加減な推測であるが、$${\partial\bar{\partial}}$$多様体となる非クラスCのbalanced多様体を転がすことによって、コンパクトケーラー多様体になるようにできないかどうか、筆者は興味を持っている。一方で次は未解決問題かもしれない。

 予想3-9
$${\partial\bar{\partial}}$$多様体は、複素構造の変形に関して閉じているであろう。

 これが否定的に解決されれば、予想3-7が否定的である可能性がやや高くなるのではないだろうか。予想3-7に対して否定的なことばかり述べたが、定理3-6という結果があるので、それの一般化である予想3-7が成り立つことは十分に考えられる。

次に挙げる定理は、冪零多様体を考えることにより、非常に容易に例を作れるのであるが、久しく未解決問題であった。例がすぐにない場合、ある種の性質が複素構造に関して閉じているか否かを考える難しさを表している。

 定理3-10
balanced多様体は複素構造の変形に関して閉じていない。

 例として与えられる変形極限は非strongly Gauduchon多様体である。したがって、strongly Gauduchon多様体も複素構造の変形に関して閉じていないことが分かる。balanced計量やstrongly Gauduchon計量は非ケーラー計量であるが、非ケーラー計量はほかにもいくつかある。それらの幾何学的性質が、複素構造の変形に関して開いているのか閉じているのか、筆者はあまり知らないのであるが、ひょっとしたら未解決の問題も多いのかもしれない。興味のある読者は調べてもらうと、面白いのではないだろうか。

また、次の問題は、有名な未解決問題につながることを知っている読者も多いかもしれない。

予想3-11
複素射影空間と微分同相なコンパクト複素多様体は複素射影空間であろう。

 複素射影空間と微分同相なコンパクトケーラー多様体は複素射影空間なので、複素射影空間の微小変形は複素射影空間である。ただ、複素射影空間が複素構造の変形に関して閉じているかどうかは不明である。実は予想3-11は、$${S^6}$$に複素構造が入るかどうかに関する問題の拡張である。つまり、$${S^6}$$の一点ブローアップは三次元複素射影空間に微分同相であるが、予想3-11が正しければ、$${S^6}$$に複素構造が入らないことが言える。ただ予想3-11は、見かけほど簡単な問題ではなく、複素3次元に限定しても、あまりこれといった結果はないようである。$${S^6}$$に複素構造が入り得るかどうか、やはり難しい問題なのであろう。ここで変形同値と微分同相を混同した述べ方をしているが、この両者は異なる概念であることに注意しよう。もちろん変形同値であれば微分同相であるが、微分同相であっても変形同値かどうかは分からない。モジュライ空間の連結成分とかそういう話につながっていくのだろうが、この辺は、非ケーラー幾何では未解決問題がたくさんあるようである。例えば、今後、述べる予定である冪零多様体に関しては、モジュライ空間に関して、岩沢多様体以外、ほぼ研究は進んでいない。興味のある読者は調べてもらっても面白いと思う。

 以上、ちょっとした予備知識でも理解できる、変形理論における複素幾何学の未解決問題を述べてみた。解決するには、もっと勉強しなくてはいけないのだろうけど、一般に複素幾何学の研究には多くの予備知識が必要と思われているので、最先端がこんなにも近くにあるのかと、意外に思われた読者もいるのではないだろうか。筆者は、複素構造の変形に関する基礎理論とかは、いまだに入門的知識すら持ち合わせていない。複素構造の変形とは、それだけイメージしやすい、非常に自然なコンパクト複素多様体の考え方なのであろう。複素解析関数は硬いというイメージがあるので、一般にコンパクト複素多様体も硬いと考えてよさそうであるが、複素構造というのは、コンパクト複素多様体によっては、変形できるのである。微分構造は変わらないが、複素構造が変化し、コホモロジーも変わってしまう。複素多様体としては、ドラスティックな変化である。複素構造とは精緻な構造であるが、それが変形でき、複素解析族というかなりクリアな捉え方ができることを面白いと思うのは、筆者だけであろうか。

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