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まなかい;小寒 第68候・水泉動(しみずあたたかをふくむ)

「寒中丑紅」… 本紅は寒中の冷たい清らかな水で作られるものが良いとされた。寒中の「丑の日」に作られたものが特に薬効が高く、唇の荒れに効果があるとか、口中の虫を殺すなどと評判が立っていた。紅は唇を彩るものだから、舌で触れるなどして体内に入りやすい。紅花から抽出された本紅であれば、むしろお薬となる。お猪口に刷かれた紅の表面は玉虫色。薬指や筆で濡らすと、ふわっとほどけて赤となる。

小寒から数えて九日目の「寒九の水」は、薬とされ、「寒稽古」もこの頃にする。

パンデミックに見舞われた今年は、氏神様である赤坂氷川神社に「花手水」を奉納させていただいた。手水や口を漱ぐのに柄杓が使えないことから、花を活けてせめて清々しく晴れやかな気持ちでという神社さんの願いがあった。活けた花は年末からの2週間、よく保った。冷蔵庫のような外気と、社叢によって寒風から守られたこと、何よりも水が悪くならないためではないかと思う。お手入れの時の水はそれは冷たくピリピリとするほどだった。しかしそれだけにお手入れが終わると清々しい。ありがたい日々だった。毎日「おめでとうございます」と参拝に見える方と言葉を交わすのも良かった。花に毎朝会うのが楽しかった。

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更なる緊急事態宣言発令により、僕たちは噂や評判など、外を取り巻くものに気を取られ、表面ばかり繕い続けてきた生き方の転換を余儀なくされている。誰もがいただいた自分の命の意味を探しに、内面を深掘りしていくだろう。外皮や鎧を取り去った、素の自分の魂を探している。

それは湧き出す泉に喩えられるもの。

清い、澄んだ、滔々と流れ出る水。みんなの内側に泉がある。

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泉に出会い、それを掬いあげるためには、稽古が必要。修行や修練、鍛錬といっても良い。なぞるとか、擬くとか、何か目指すものがあるなら、みな知らず知らずにやっていることでもあるが、宗教家や、修練を経た職人や芸術家たちがずっと自分を掘り進め、彫琢するためにやってきたことだ。

何度でも自分を解体し、自分の中に空隙や余白、余地をつくり、新たなものを入れて組み直していく。いらないものは捨てられ、大事なものは残り、重石となっていくから心配はいらない。花なら何度も何度も花を身体に通す。通し続ける。

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花を活けることは、深層意識へのダイブなのだ。花という存在により、引き出され、揺り動かされる生の魂。花を活けることは、自分の深層意識を花によって立てること。だから花は鏡なのだ。鏡としてこの世に立ちあがる。花となった自分の深層意識と出会う。深層意識であるからには、どこか奥と、つまりは世界と繋がっている。

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その意味で花立ては世を占うことでもある。立てた依代に小さくても竜巻が起こる。そう、龍が立ち昇る。小さな渦が放たれる。

自分の内側に眠る泉がある。そこに至るまでにいくつもの門がある。解体も起こる。泉は何かその人にとっての核のようなものかもしれない。

核と言ってもイメージとしては硬いものではなく、それこそふるふるしたものである。僕は「水に包まれた炎」のようなイメージを持っている。しかも生命を持っているようだ。以前夢で見たのはそんな感じだった。水の中で手にしたそれは、ゼリーのような、いやどちらかというと、透明な麩饅頭のような柔らかなものに包まれ、綺麗なオレンジや蛍光ピンクの炎がその中で燃えていた。もしかすると龍の卵なのかもしれない。

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泉へ至るには、僕の場合は花が、植物が道標であり、パートナーでもあり、大先達なのだと思う。氷に閉ざされていればそれを溶かし、土砂降りの時はじっと待ち、地中深く埋められているなら掘り、ひたすら歩き続けていくための、畏れ多くも、頼もしい相方なのだ。

言葉の前に、事として彼らに出会う。出会った奇蹟から生まれてくる事が、様々な覆いを取り去ってくれる。そうしていつしかその奥にある、温かで幻のような泉に出会う。

微かな光に揺れる、汲み尽くせない泉。

花を手すりに下降する。

彼らの導きに委ねれば良いのだろう。そして泉の水を一緒に吸うからこそ、花と人の間に活け花が生まれる。

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写真は1月13日 時短で開催された「はなのみち」のお稽古風景。撮影はshinichi tsukada。お出ししたお菓子は福光屋さんで購入した金沢うら田さんの「金沢八幡起上もなか」。 マトリョーシカみたいで可愛い。


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