【第497回】『マンハッタン無宿』(ドン・シーゲル/1968)

 草一つ生えない荒涼としたアリゾナの砂漠地帯。インディアンの男は岩山に隠れながら、肉にかじりついている。そこに現れる一台のジープ。保安官でありながら2人1組ではなく、単独行動を好むクーガン(クリント・イーストウッド)は被害者の者らしきブーツを見つける。靴底に書かれた「ナバホ族」の文字。男は眼前に注意を注ぐも人影はまったく見えない。その一連の行動を岩山の影から容疑者の男は執拗に見守る。その手には猟銃、やがて射程距離へと近付くジープの運転席に男は狙いを定めるが、砂煙と逆光によるハレーションで思うように仕留められない。2発の銃弾がジープの窓を貫通した後、一瞬訪れる静寂。男のテリトリーには既にクーガンが入り込んでいる。まるで亡霊のように、一瞬で彼の近距離を伺う男は「ズボンを履け」と命令し、猟銃で腹を殴る。こうしてクーガンは指名手配犯を手土産に、愛する女の部屋へと向かう。すやすやと眠る女にキスをし、すぐにSEXに持ち込もうとするクーガンの欲望を遮り、女は埃にまみれたクーガンの身体を湯船で洗う。そこに訪れた激昂する上司の姿。1時間の猶予を貰ったクーガンは恋人と愛し合いながらも、凶悪犯の身柄引き渡しのために、単身ニューヨークへ飛ぶことを命じられる。

カウボーイ・ハットに先の尖ったブーツ、時代遅れのスーツで着飾る男の風貌は、ニューヨークではどこまでも奇異に映るのは言うまでもない。カサヴェテスと共に、先鋭化するニューヨークを体現したシーモア・カッセルのジュリー(スーザン・クラーク)へのセクハラを見つめる忌々しい表情、杓子定規な形式主義に田舎町の若者は苛立ちを隠せない。テキサスとアリゾナという都市部の人間にはどうでも良い間違いにも、クーガンは常に怒りをぶつける。田舎者にはどこか寂しいマンハッタンの街並み、タクシー運転手にはぼったくられ、うらぶれたゴールデン・ホテルでは娼婦とホテルマンがグルになって田舎者から金を巻き上げようとする。彼の目から見たニューヨークの夜景はただただ世知辛い。当初はリンガーマンを吊るし上げて、早々にアリゾナに帰るはずだった彼の計画は思わぬ事件で頓挫する。初期のイーストウッド作品では、常に敵側の奇襲により、瀕死の重傷を負うことになる。その凶行の場面を職人ドン・シーゲルは短いショットの積み重ねで魅せる。実際に致命傷を与えるワンショットの狭間に、臨場感溢れるクローズ・アップを入れることで、暴力はより鋭さを増していく。

護送するはずだったリンガーマン(ドン・ストラウド)はLSDの中毒症状で精神病院に入院している。ここでは身柄の引き渡しよりも、個人の責任能力の有無が争点になり、簡単には逮捕出来ない。リンガーマンとその恋人はまんまとアメリカの法律の抜け穴を突き、せせら笑う。ここでも「法と正義の行使の不一致」というイーストウッド作品に通底するテーマが頭をもたげる。68年という時代背景を纏ったサマー・オブ・ラブ〜ヒッピー・ムーブメントはLAで誕生し、翌年にはニューヨークでも極めて大きなムーブメントを巻き起こした。中盤リニー・レイヴン(ティシャ・スターリング)を探すクーガンがたどり着いたLSDパーティの過剰さはまさに時代が産み落とした空気に他ならない。マリファナ、LSD、GO-GOダンスにフリー・セックス。身体にボディ・ペインティングをされた豊満な女性たちがお立ち台でダンスを踊る一方で、リニー・レイヴンは黒人男性とマリファナを回し合う。職務に熱心だったクーガンが、若いファム・ファタールの罠に落ち、ワンナイト・ラブを犯す中盤部分には首を傾げざるを得ないが、ビリヤード場での死闘〜クライマックスのバイク・チェイスはドン・シーゲルの面目躍如なめくるめく活劇の嵐を見せつける。今作は西部劇の役者だったイーストウッドのイメージを刑事モノへと見事に昇華させた。ドン・シーゲルの苛烈なカッティング、ラロ・シフリンの軽快なJAZZなど、西部劇のイメージ〜『ダーティ・ハリー』のハリー・キャラハンへと転じるまさに過渡期となった時代の匂いが充満する。まさに『ダーティ・ハリー』のプロトタイプとなった95分の傑作B級プログラム・ピクチュアである。

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