【第582回】『チェンジリング』(クリント・イーストウッド/2008)

 1928年ロサンゼルス、大恐慌目前のアメリカ、路面電車が走る通りの脇に立つ閑静な平屋。部屋の目覚ましが6時半に鳴ると、クリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)はゆっくりと起き上がり、静かにカーテンを開ける。差し込む朝の光の中、ラジオから流れてくるジャズのリズムに乗せて、クリスティンはもう10分寝かせてと愚図る愛する息子ウォルター(ガトリン・グリフィス)を起こす。母親は廊下の柱に書かれた息子の身長の目盛りを記入しながら、その成長に目を丸くする。冷たいシリアルを食べさせ、9歳の息子を小学校に送った後、路面電車に乗る。彼女は電話交換手の主任として忙しく働きながら、女手1つでウォルターを懸命に育てている。『許されざる者』以降のイーストウッドに顕著なように、ここでも両親は揃わない。その日の帰り道、父親がいないことをからかわれたウォルター少年は、ついカッとなってその子を殴ってしまったことを母親に懺悔する。母子は一貫して父性の不在を抱えている。ようやく出来た休暇、母親は息子とチャップリンの映画を観る約束をする。だが翌日、部下に急病が出たという職場からの連絡を受け、4時までならという約束で渋々応じる。帰り際、そそくさと職場を出るクリスティンの前に、上司が昇進の話を持ちかける。また月曜日に話しましょうと受け流し足早に駆けて行くが、路面電車はすんでのところで出て行ってしまう。家の前の通りを足早に歩きながら、ウォルターの待つ家に一目散に帰る母親の姿。しかし最愛の息子ウォルターは忽然と姿を消してしまう。

母親に映画の約束をすっぽかされたウォルター少年の表情は、『ミスティック・リバー』で父親の不在が頭から離れず、不安げな表情を浮かべたマイケル・ボイル少年(ケイデン・ボイド)によく似ている。実際、そそくさと職場に向かうために部屋を出た母親が振り返った時、ウォルター少年の表情はどことなく寂しく、まるで今生の別れを惜しむかのように窓越しにすくっと立っている。この様子は『パーフェクト・ワールド』において、ハロウィン・パーティを寂しげに見つめるフィリップ少年(T・J・ローサー)にも近い。イーストウッド映画において、子供たちはしばしば父親の不在を抱えながら、残酷な運命に呑み込まれる。そんなこととは夢にも思わずに、母親は早退して路面電車に乗ろうとする。人々の歩幅、道路を走る車、けたたましいベルが鳴る中を、ローラー・スケートで滑る彼女の優雅なリズム。それに初めて抗う印象的な場面だが、臙脂色の路面電車は彼女の視線に気付かないまま、ゆっくりと過ぎ去ってゆく。もう1本遅れて列車に乗った後、母親の挙動は自然と足早になる。イーストウッドのフレーム設計は、彼女の不安げな表情と、明かりのつかない無人の窓ガラスをリバース・ショットで性急に見せる。『マディソン郡の橋』の出会いの場面とは逆の、永遠の別れを思わせる場面が残酷で緻密で容赦ない。5ヶ月後、ロサンゼルス市警のJ.J.ジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)により、イリノイ州で息子が発見され、母親は天にも昇るような至福の笑みを浮かべる。だが『許されざる者』以降、繰り返し用いられてきたあらゆる感情を動かす雨は無情にも降らない。ロサンゼルスからはるばるイリノイ州までやって来た母親を待ち受けるのは、霧が晴れたような真っ青な空の下で、茫然自失と立ち尽くす残酷な運命である。ここではいつものブラウンの服装ではなく、エメラルド・グリーンのドレスを羽織るが、彼女の口紅の色はいつものように赤く、腫れぼったく浮き上がる。

官僚機構に言いくるめられ、すっかり四面楚歌となったクリスティンの理解者となるグスタヴ・ブリーグレブ牧師(ジョン・マルコヴィッチ)の姿。彼は権力に対し、為す術もない小市民である主人公に、権力に刃向かう術を1から教えて行く。ここではイーストウッド映画に通底する「教育とイニシエーション」の主題が唐突に顔を出す。官僚機構は母親の本能を「妄執」として聞き入れない。1920年代の腐敗したロサンゼルス警察の捜査体制、再選に向けた人気取りしか興味のない市長の卑しさは、官僚機構や白人至上主義に異議を唱えたイーストウッドの集大成とも言える。マスコミが群がる正面玄関を避け、裏口から羽交い締めにして母親を強制的に連行する瞬間に、大雨は降る。J.J.ジョーンズ警部の稚拙な捜査体制に対し、ただ1人異議を唱えたレスター・ヤバラ刑事(マイケル・ケリー)の良心により少年が検挙され、カナダへの強制送還を命じられた場面でもう一度雨は降る。まるで『Bird』の導入部分のような雷鳴轟く大雨の中、少年は刑事に対し懺悔する。後半、急遽炙り出されたゴードン・ノースコット(ジェイソン・バトラー・ハーナー)の造形は、『ダーティ・ハリー』シリーズのスコルピオや、ウォルフガング・ペーターゼン『ザ・シークレット・サービス』のミッチ・リアリー(ジョン・マルコビッチ)、『ブラッド・ワーク』のバディ・ヌーン(ジェフ・ダニエルズ)を彷彿とさせる血も涙もないシリアル・キラーに違いない。息子を誘拐された女は執念だけで官僚機構に楯突き、サン・クエンティン刑務所で明日絞首刑になるゴードン・ノースコットを烈しく罵倒する。クリスティンが振り返り、レスター刑事に笑顔で囁くたった一言には、何度観ても絶句する他ない。

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