【第613回】『永い言い訳』(西川美和/2016)

 凍えるような寒い冬、長年夫婦が住み慣れたマンション、床に新聞紙を敷きつめながら、妻・夏子(深津絵理)は夫・衣笠幸夫(本木雅弘)の髪を切り揃えている。夫婦にとっていつもの光景と微妙な距離感。TVモニターでは夫が出演したバラエティクイズ番組の模様が流れ、「文壇のジョニー・デップ」と称される人気作家・津村啓として全国に知られる夫は、普段の自分自身とのギャップに辟易したような冷たい薄ら笑いを浮かべる。その冷淡な態度を大らかに包み込む夏子の姿。クシで髪をかき上げ、数mmずつ切る鮮やかな手際。ひょんなことから自らの名前のことで口論になる幸夫は広島カープOBの鉄人・衣笠祥雄と同じ名前に生まれたことの窮屈さを妻に切々と語る。憎まれ口を叩くその姿は心底嫌味だが、どこか憎めない。妻は数十年に渡り、美容室を経営している。夫とは彼が作家になる前からの関係であり、文章で食べていく自信の無かった幸夫を鼓舞し、流行作家の津村啓を糟糠の妻として支え続けた。髪を切り終えた妻に幸夫は特に感謝を見せるでもなく、明日のスーツの準備が出来ているのかをぶっきらぼうに問い質す。慌ただしく用意する妻から「部屋に用意してあるから」という返事。幸夫は妻の準備を手伝わず、先程来た誰かからのメールを確認している。そこに用意をして来た妻が突然勢い良くドアを開き、彼女は一言こう告げる「後片づけはあなたがやっておいてね」。その言葉が夏子との最後の言葉になるとは夢にも思わない。

物語のモチーフには明らかに3.11以降の私たちの世界がある。相思相愛な家庭、ギクシャクした離婚寸前の夫婦、結婚間近のカップル。刻一刻と変化していく様々な愛の形を引き受けながら男と女の在り様を、時には家族の在り様を東日本大震災がいとも簡単に切り裂いてゆく。生き残った者と亡くなった者との残酷な距離、生き永らえた者は死んだ者の面影を思い、自分自身を死ぬまで責め続ける。人間は孤独では生きていけないから、どんな人間にもこの世で関わりのある親しい人間がいる。「もしも」というエクスキューズは生き永らえてしまった者の後悔の念として死ぬまで生き続ける。自分自身への問いかけのような死者への想いは、衣笠幸夫というある種、人間の感情を放棄してしまった男の不可思議さとクズの所業を強調する。親友とのスキー旅行に向かうバスが、一瞬で消える山間の道を捉えたロング・ショット、ヘンデルの『調子の良い鍛冶屋』の牧歌的なメロディが流れる中、夫は平然とした表情で妻に悪びれもせず、あろうことか年下の編集者である福永智尋(黒木華)と情事を重ねている。早朝の電話、一切の電話に出ない主義の幸夫は朝一の電話にも特に焦ることなく、留守電ボタンを押して様子を伺うが、そこに妻急死の報せが入る。悲しいはずなのに泣けない。かつて本気で愛したはずの妻とはいつの間にかすれ違い、今日誰と、どこへ行くのかさえも一切把握していない。西川美和は突発的な妻の死を、それはそれといとも簡単に受け入れてしまった男・幸夫と、妻ゆき(堀内敬子)の死から半年経った今も一向に受け入れられない大宮陽一(竹原ピストル)とを正反対の人物として対峙させる。幸夫には子供がおらず、陽一には塾に通う兄・真平(藤田健心)とエビ・カニのアレルギーを持つ妹・灯(白鳥玉季)がいる。

西川の師匠である是枝裕和の『そして父になる』や『海よりもまだ深く』では一貫して絶対的な父性になろうともがく夫の悲哀を同時に描いていたが、今作では全てを失った男が、子供たちの母性になろうともがく姿を描く。不倫していた福永には愛の無いSEXを罵られ、二人の子を持つマネージャー岸本伸介(池松壮亮)の話が実感を伴う言葉として聞こえない彼には、夏子の死を振り返ることさえも許されない。孤独が孤独を苦しめ、すっかり自暴自棄になった男は子供たちのメンターになることで、自分自身が生きる意味を見つけようとする。恐らく初めての本格的な子役演出となる西川の手腕は、幸夫同様に張り詰めた緊張感がスクリーンに充満する。やけに耳に残って仕方ない『ちゃぷちゃぷローリー』を一瞬の視線の交差もなく見終えた灯ちゃんが、幸夫をお父さんの従兄弟だと告げる場面は、出来過ぎとはいえやはり身につまされる。西川美和の大胆な野心は、家族の形態を解体し、喪失感を持った人々を連帯させる。JBSテレビのカメラが回る中、湖畔でカメラを前に夏子への愚痴をこぼす幸夫の姿は妙に生々しい。幸夫が何気なく手帳にしたためた「人生は他者だ」というフレーズ、夏子の消えそうな携帯から発掘した「もう愛してない ひとかけらも」という未送信のメッセージなど、随所に重い言葉を散りばめる西川の手腕は、成熟した女性らしい細部の気付きに溢れ、まったく淀みがない。だがその反面、映画があまりにもロジカルで一分の隙もない。もう少し映画らしいゆったりとしたフィジカルな登場人物の動線や情緒が観たかった。衝動を抑え、極めて静謐に理性的なロジックで紡いだ物語は、3.11以降の喪失感を抱える層の背中をゆっくりとだが、確実に押してくれる。

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