【第593回】『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド/2016)

 2009年1月、新年を迎えた凍えるような寒さのニューヨーク。NY発シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ1549便は、マンハッタンの上空でバードストライクにより突如左右両方のエンジンを停止し、160万人が住む大都会の上空で行き場を失っていた。旅客機も両エンジンがダウンすれば、ゆっくりと下降する70トンもの鉄の鉛に成り果てるしかない。不安げに見つめる乗客の表情。パイロットは何とか操縦を試みるが、やがてコントロールを失った機体は高層ビル群に斜めに激突し爆発、炎上する。その瞬間、悪夢のような叫び声を上げ、ベッドから起き上がるチェスリー"サリー"・サレンバーガー(トム・ハンクス)の姿。シャワーを浴びながら、酷い倦怠感に襲われる彼は、水蒸気で曇った鏡をゆっくりとこすりながら、まるで『J・エドガー』のジョン・エドガー・フーヴァーのように、弱り切った自分の真実の姿と向き合う。155名の乗客全員を救った彼の奇跡のような救出作戦は、NTSB(国家安全運輸委員会)の追求に遭い、ある疑惑を追求される。その結果、サリーの英雄物語は、一夜にして悪夢(妄執)へと転ずる。ろくに睡眠も取れない中、彼は住み馴れた家に帰ることも許されず、ホテルから日課のジョギングに出かけるが、その表情はどこか冴えない。何やら物思いに耽りながら道路を横断しようとしたサリーに対し、突如鳴らされたタクシーのクラクション。彼は心ここにあらずな状況の中で、自分の判断が正しかったのか自問自答している。

導入部分からまるで真綿で首を絞めるような、イーストウッド独特の張り詰めた加虐描写が冴え渡る。心拍数が上がった機長を苦しめるマスコミのフラッシュの嵐、高層ビル群に見える墜落の残像。真っ黒なTV画面に電気がつき、機長を断罪するキャスターの声を聞く描写は、前作『アメリカン・スナイパー』において、クリス・カイルが付いていないTV画面から戦場の残響音を聞く場面に呼応する。今作においても、主人公サリーと副機長だったジェフ・スカイルズ(アーロン・エッカート)を苦しめるのはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の苛烈な描写に他ならない。それはいつ何時、襲ってくるかもわからない緊迫感に溢れる。映画は前作『アメリカン・スナイパー』のように、サリーの心的トラウマから、現在と過去(回想)とが綴れ織りのようにあまりにも見事に紡がれてゆく。『父親たちの星条旗』や『人生の特等席』と同様に、導入部分でサリーが見たのは悪夢であり、幻である。映画は悪夢と現実が混在しながらゆっくりと進行する。サリーはコロラド州の空軍士官学校を首席で卒業後、1973年にアメリカ空軍に入隊し、1980年にUSエアウェイズに入社。非常事態に対応するため心理学までをも学んだ。回想場面では男のメンターとなるジェットファイターがサリーに対し、「最後まで操縦を諦めるな」と「空を飛ぶときは笑顔でいなさい」という2つの格言を残す。学生だったサリーはその言葉に微笑み、胸に刻む。ここでも年長者と年の離れた若者との教育とイニシエーションの主題は有効である。全編に渡り、トム・ハンクスの抑制の効いた落ち着いた演技も物語に華を添える。

イーストウッド映画では、個人の名誉に対し、巨大な官僚機構がしばしば疑惑の眼を向ける。『ダーティ・ハリー』シリーズで裁判にかけられたハリー・キャラハンが、サンフランシスコの民衆から熱狂的に支持されても、裁判長からはいたく叱責された状況によく似ている。国民から一貫して英雄視されながら、官僚機構に糾弾されるサリーの焦燥感は、クリント・イーストウッド自身のパブリック・イメージとも重なる。機長のサリーも副機長のジェフも、管制塔の通信担当もCAもあくまでプロフェッショナルとして自分が出来ることを最大限にこなす。多くの人命を救ったにも関わらず、組織に疑惑を持たれ、個人が背負うには重過ぎる過失を問われる。これは「法と正義の行使の不一致」を生涯のテーマに掲げるイーストウッドらしい主題を内包する。サリーには愛する妻ローリー(ローラ・リニー)がおり、2人の娘は共に思春期を迎えつつある。ローンで買った賃貸住宅の支払いはまだ終わらず、ここで断罪され職を失えば、一瞬にして一家が路頭に迷いかねない。裁判の過程で明らかになる真実を、イーストウッドの演出は決して誇張せず、かといって誤魔化さず、ごく普通に2度繰り返す(悪夢を含めれば実に3度も!!)。観客の悲鳴や恐怖の顔を映さず、ありきたりなパニック映画やディザスター映画とも一線を画す。さり気なく入れられた9.11やリーマン・ショックの影響を感じさせる物語の機微。テクノロジーの時代にも、直感や経験を重んじる姿には『グラン・トリノ』『人生の特等席』同様の強固なアナクロニズムが香る。シンプルで老獪で味わい深い、実にイーストウッドらしい96分間の傑作の誕生である。

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