【第521回】『ファイヤーフォックス』(クリント・イーストウッド /1982)

 アメリカ最北端にあるアラスカ。針葉樹が生い茂る緩やかな丘を真下に臨みながら、1台のヘリコプターがまるで目的地を物色するように飛んでいる。地上ではミッチェル・ガント(クリント・イーストウッド)がグレーのトレーニング・ウェアを着込み、ジョギングに励んでいる。その胸元にはじっとりと汗が滲み、かなり長い距離を走ってきたように見えるが、ヘリコプターのプロペラ音を聞いた男は、異常な反応を示す。必死の形相で走る男の姿とヘリコプターの小刻みなカットバックは、まるでテッド・ポスト『奴らを高く吊るせ!』や『アウトロー』の徐々に忍び寄る恐怖を彷彿とさせる。男は自宅へとつながる湖の上にかけられた橋を勢いよく渡ると、居間に隠されている猟銃を手に取り、部屋の下にうずくまる。薄れゆく意識の中、やがて始まる惨劇のフラッシュ・バック。男はヴェトナム戦争のエース・パイロットとして次々に相手戦闘機を撃墜していた。だが地上からの一発の砲弾により、墜落目前で男は辛くもパラシュートで脱出を試みる。その後はヴェトナム軍に絡め取られ、移送される過程で見た少女の柔らかな天使のような微笑み。そこに突如、味方のアメリカ軍の援護側が銃撃を始め、少女の笑顔は真っ赤な炎にかき消される。ここでのミッチェル少佐の造形は、ベトナム戦争の帰還兵としてPTSDを患っている。かつてはエース・パイロットだった兵士が、今ではヘリコプターのプロペラ音に怯え、おそらく生まれはアメリカの中心部だろうが、人里離れた極寒の地アラスカに居を構え、誰にも干渉されない隠居生活を送っている。軍部の指令を伝達に来た男は、80000キロもの距離を走り、かつてのエース・パイロットに極秘の任務を依頼する。こうして男はロシアへの侵入を試みるのである。

レーダーには機影を残さずマッハ6で飛び、思考誘導装置によって兵器を放てるソ連最新鋭戦闘機、コードネーム・ファイヤーフォックス。東西陣営の軍事バランスを大きく損なうスペックを持つ。完璧なステルス性と黒々としたボディ、パイロットが思考するだけで各種ミサイルや航空機関砲などの火器管制が行える思考誘導装置を有し、スイッチや操縦桿やボタンを使用するよりも迅速かつ的確に戦闘を行う事が可能な機体に、PTSDに苦悩する男は魅せられ、軍の口車に乗る。今作はサスペンスフルなスパイ大作として期待された『アイガー・サンクション』の失敗の汚名を晴らさんとする気概に満ちている。あるいは師匠ドン・シーゲルの『テレフォン』の冷戦構造下の代理戦争の緊迫感が頭にあったかもしれない。現代の視点で振り返れば、いささか牧歌的に見える「冷戦構造」や「鉄のカーテン」と呼ばれた一触触発の時代。ガント少佐はリオン・スプラグという実在の人物を詐称し、ロシアへの侵入を試みる。実際は殆どの場面をロシアではなく、ウィーンで撮影された潜入劇は、ドン・シーゲル『アルカトラズからの脱出』のスプーンを2本盗み出すシーンや、疑惑の目で見つめる守衛の目線が引き起こすサスペンスの主題を持って来る。税関の職員との対話、トイレでのKGBスパイとの対話、トランクに隠れたガントを見つけ出そうとする守衛たちとのやりとりなど、幾つかのサスペンスフルな演出を経るものの、ロシア側の脆弱な監視体制は、同じく刑務所側の不備を徹底的に突く『アルカトラズからの脱出』同様に、やや予定調和の域を出ない。だがロシアからオーストリア・ウィーンに撮影現場を移したロケーションの荒涼感、夜の街の圧倒的な闇はブルース・サーティースとイーストウッド・コンビの熟練した輝きが見て取れる。

ロシアに侵入してから、ガント少佐を辛くも救い出すのは様々な立場に苦しむマイノリティの共演に他ならない。パヴェル・ウペンスコイ(ウォーレン・クラーク)はユダヤ人であり、同じくユダヤ人の妻がチェコ侵略のかどで12年間投獄されていることを苦々しく思っている。基地内部に侵入しているピョートル・バラノヴィッチ博士(ナイジェル・ホーソーン)やその妻のナタリア・バラノヴィッチ博士(ディミトラ・アーリス)らもユダヤ人として迫害された歴史を持ちながら、ロシア軍の戦闘機に技術を提供し、アンビバレントな感情が渦巻いている。白い白衣に黒い銃弾が火を噴き、赤い血が溢れ出る彼らの殺害シーンは多分に図式的だが、それよりも重要なのは赤い背景をバックにシャワーを浴びるガントが、PTSDの再発で身動きが取れなくなる場面だろう。ここでも痛み傷つく加虐な主人公の姿が印象に残る。その苦しみを克服し、死者の眼前に現れたガント少佐のパイロットとしての造形は、まさに不死身の幽霊としての姿を体現する。真っ黒なヘルメットを被り、一瞬誰だかわからない風貌を観客に晒した上で、やがてコクピットの中で生身の表情を晒け出すイーストウッドの傷ついた表情。敵のレーダーから消え、再び現れる様子もイーストウッドの主題に合致する。『スター・ウォーズ』のジョン・ダイクストラをSFXに迎えた後半の戦闘機の場面は、あまりにも『スター・ウォーズ』じゃないかという批判は免れないものの、広大な宇宙=黒の背景だった『スター・ウォーズ』に対し、今作はブルー・マットの特殊効果を使用しながら、背景は一貫して青い空という物理的困難さを強いられる。監督であったイーストウッドは絵コンテを作り、ダイクストラにわざわざ出来上がりのイメージを説明したと言うが、実際に出来上がった映画は『アイガー・サンクション』と同じ失敗を繰り返してしまう。この失敗が実感として、イーストウッドをCGから遠ざけたのは云うまでもない。特撮技術の発達していない当時にはあまりにも早過ぎた作品だった。

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