【第581回】『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド/2006)

 2005年、平和を取り戻した小笠原諸島にある硫黄島に、調査団の面々が上陸する。島には1944年の死闘を物語る戦争の傷跡が、当時の面影を残している。ある洞窟の中に入った一団は、土を掘る過程で当時の日本兵の遺品を掘り起こす。土を掘り起こすイメージが1944年にオーバーラップし、西郷昇陸軍一等兵(二宮和也)は来る日も来る日も上官の命令で、海岸沿いに一日中塹壕を掘っていた。夥しい汗と砂煙、野崎陸軍一等兵(松崎悠希)に対し、「こんな島、アメ公にくれてやればいいのに」と冗談交じりに話しながら、渋々穴を掘り続ける男の背後に上官である大久保陸軍中尉(尾崎英二郎)がにじり寄る。「貴様、いま何と言った?」と詰問され、西郷と野崎は拷問を受けることになる。そんな彼らの事情を知る由もなく、1機のヘリコプターがこの島に上陸する。筆まめな栗林忠道陸軍中将(渡辺謙)は、故郷に残した最愛の妻と息子に手紙を書き残しながら、辺鄙な島の海岸沿いに着陸する。硫黄島の全貌を一通り歩いて回った栗林は、この島のシンボルとも言うべき擂鉢山の地形を見ながら、しばし物思いに耽る。一方その頃、大久保陸軍中尉により軍法会議にかけられようとしている西郷と野崎の危機を、新たに赴任してきた栗林が救う。今までのどの指揮官とも違うリーダーとの出会いは、硫黄島での日々に絶望を感じていた西郷に、新たな希望の光を抱かせる。

アメリカ側の視点から描いた『父親たちの星条旗』に続く「硫黄島プロジェクト」二部作完結編。こちらは硫黄島での戦いを、日本側の視点から描いている。『父親たちの星条旗』が硫黄島決戦の模様よりもむしろ、1枚の写真に翻弄され、偽りの英雄を演じなければならなかった3人のその後を描いていたのに対し、敗戦国日本の過酷な状況を描いた今作は、なぜ日本がアメリカに敗れてしまったのかを丁寧に紡いでゆく。栗林の到着まで、もともと海軍が指揮していた戦術プランでは、水際防衛作戦がスタンダードだった。そのため、西郷たちは来る日も来る日も海岸線に塹壕を掘り、アメリカ軍の硫黄島上陸に備えようとしていたが、栗林はそのオーソドックスなプランを一蹴し、内地持久戦による徹底抗戦に変更する。それゆえ『父親たちの星条旗』で海岸に上陸したアメリカ兵たちが、待ち構えているはずの敵襲が一向にないことに驚きの表情を浮かべたのも無理はない。結果的にその作戦が吉と出たのか凶と出たのかは定かではないが、当時の日本軍の状況が、本土防衛作戦に人手も武器も全て注ぎ込み、硫黄島決戦は半ば見殺しにしていたのは想像に難くない。嘲笑うかのように米軍の戦力を過信する中村獅童や阪上伸正に対し、栗林は「米国が1年間に作る車の生産台数を知っているか?」と問う。我々の先祖は体格も国のスケールも桁外れなアメリカに対し、不毛な戦いを挑みながら、散らなくてもいい命を無数に散らしていったのである。

『父親たちの星条旗』の撮影当初、イーストウッドは対となる今作の監督に日本人を起用することをスピルバーグと話し合っていたが、当時の日本側の資料を調べるうちに、自らメガホンを取ることを決断する。最初から玉砕覚悟の状況下で、それでも国のために勇敢に戦い抜いた栗林中将の決断が胸を打つ。だがこれまでの戦争映画の有り様を一変させたのは、あえて司令官や昭和天皇を主人公にはせず、西郷という戦争に加担させられたか弱き小市民を主人公にした点にある。田舎でパン屋を営みながら、結婚したばかりの妻・花子(裕木奈江)のお腹の中には、赤ん坊がいる。西郷は従軍の過程で、確かに生まれ、すくすく育っているはずの最愛の子供の姿を一度も見ていない。イーストウッドは栗林中将同様に、彼らが兵士である前に、家族を持つ父親であることをことさらに強調する。平和な時代であれば、子煩悩だったはずの主人公をイーストウッドはあえて、絶望の淵に追いやる。上官の理屈の通らない不条理さや、当時の本音を言えない社会状況に対し、西郷と清水洋一陸軍上等兵(加瀬亮)は徹底して真っ当に生きようとする。彼らの生き様は確かに軍の規律からすれば褒められたものではないが、彼らの生存本能は後に残された家族を不幸にしないために決断されたものである。洞窟で「天皇陛下万歳」と叫びながら、手榴弾のピンを抜く兵士たちの最期のあまりにも悲壮な面構え、布で出来た弾除けを腰に巻き、僅かに気持ちを楽にする日本兵たちの無残さ、夜の闇の乾いた色調。西郷昇陸軍一等兵の運命はまるで『父親たちの星条旗』のドクの末路に呼応するように、小市民から見た戦争の悲惨さを照らし出している。

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