【第568回】『真夜中のサバナ』(クリント・イーストウッド/1997)

 アメリカジョージア州サバナ、ロバート・ゼメキスの『フォレスト・ガンプ』でも印象的だった歴史地区内チッペワ・スクエアに置かれたベンチで、ミネルヴァ(イルマ・P・ホール)は腰掛けながら、物乞いをしてきたリスに何やらちょっかいを出している。この地に生まれたキャピトル・レコードの創始者にして作曲家であるジョニー・マーサーの墓に刻まれた『そして天使たちは歌う』の文字。傍らには両手に2枚の皿を乗せられた少女のブロンズ像が置かれている。ミネルヴァはやがて空を見ると、デルタ航空の飛行機がいまサバナに着陸しようとしている。その便に乗っていたジャーナリストのジョン・ケルソー(ジョン・キューザック)はタクシーを探すも停まっていない。バスの運転手にタクシーの在り処を尋ねるも、ジョーンズ通りならこのバスに乗って行けとバスでの移動を勧められる。こうしてバスに乗ったケルソーはジョーンズ通りの手前のフォーサイス公園で降りる。自然豊かな公園の風景を眺めながら、明らかに重そうなトランクケースを2台引いて歩く。やがて一軒の赤煉瓦の広大な屋敷の前に降り立ったケルソーは、洗車していたビリー・ハンソン(ジュード・ロウ)から親しげに声をかけられる。彼の肩にうっすらと見える刺青跡、よそ者を訝る若者の眼差し。それを遮るかのように2階の窓辺からローサン・バクスターが手を振りながら、中へ入るよう促す。

『タウン&カントリー』誌に連載を持つNY在住のジャーナリストであるジョン・ケルソーは、ジョージア州サバナで行われるジム・ウィリアムズ(ケヴィン・スペイシー)のクリスマス・パーティの取材のため、この地に足を運んでいた。『ピンク・キャデラック』でも『ホワイトハンター ブラックハート』でも前作『マディソン郡の橋』でも、都会から田舎に足を運んだ主人公がその街で天啓に出会うモチーフはあったが、今作でもジョン・ケルソーは最初からネジが少し緩んでいるこの町の景色と人間たちに徐々に魅せられていく。クリスマス・パーティの前夜祭である女人禁制の独身貴族のパーティに誘われたケルソーだったが、最初はジムの誘いを断る。窓辺から見える喧騒に少し心が揺れるケルソーだったが、その日は騒音の入ったカセットテープをかけたまま深い眠りにつく。だがその眠りを妨げるノックの音が何度も響く。眠い目をこすりながら、ゆっくりとドアを開けると、そこにはファム・ファタールとなるマンディ・ニコルズ(アリソン・イーストウッド)が立っている。いきなり何も言わずにドカドカと侵入してきた女は、氷はないかとケルソーに魅惑的に問う。まるでサバナの街全体を自分の庭のように振る舞う住民たち。かつてウィリアム・シャーマンが率いたこの街の住民たちのサバナ進撃作戦の功績は、南北戦争の時代をほとんど無傷で終えた奇跡のような歴史の上に成り立っている。

前作『マディソン郡の橋』のわかりやすい不倫ドラマから一変し、今作の物語はまるでかつての『ホワイトハンター ブラックハート』のようにあまりにも不明瞭で要領を得ない。MYからの帰還のラブコールを『風と共に去りぬ』の例えで誤魔化した主人公は、美術収集家で新興成金のジム・ウィリアムズの殺人にまつわるミステリーの深淵に足を突っ込む。ジョージア大学のマスコット犬ウガの肖像画、犬の実体が見えないにも関わらず、首輪だけぶら下げて散歩する男、真夜中に死者と交信するブードゥー教の女、顔の周りをアブにたかられた男の描写など、生と死が曖昧になった世界で、奇怪な登場人物たちはケルソーの前に姿を現す。まるでミステリーの隠された暗部が、サバナの真夜中に接点を求める。曖昧模糊とした生と死の境界線は、善と悪、光と影、裕福と貧乏、栄光と挫折のような二項対立を促すことになる。ジムとケルソーを同時に助けることになるレディ・シャブリも、ジム・ウィリアムズもビリー・ハンソンも、性愛において子供を産み落とす立場から切り離されている。ケルソーが最初にウィリアムズの部屋で見つけたジョージ・スタブズの絵の裏に書かれたもう1枚の絵の存在が、まるで映画の靄がかったミステリーを体現しているかのように映る。ジム・ウィリアムズとビリー・ハンソンという自己破滅的な男たちの人生を間近で観ながら、ファム・ファタールに夢中になるのと時を同じくしてこの街に夢中になった男は、何もかも便利なNYからの移住を決意する。それはジム・ウィリアムズの妄執がケルソーに伝播したことに他ならない。

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