【第558回】『彼女と彼女の猫 -Everything Flows-』(新海誠/2016)

 就職活動に追われる短大生・美優(声=花澤香菜)は、彼氏が出来た知歌(声=矢作紗友里)とのルームシェアを解消しようとしていた。2人の出会いは小学生時代の夕陽の沈むブランコ前に遡る。最初は憎かった黒猫のダル(声=浅沼晋太郎)が2人を引き合わせてくれた。転校生のカギっ子、1人娘の美優には父親がいない。いつも1人で孤独に遊ぶ美優の姿を不憫に思ったのか、母親が拾ってきて美優にプレゼントした段ボールに無造作に入れられた猫の小さな身体。大雨の日、小さく丸まりながら、過酷な生活に耐えていたダルは今日から美優の相棒となる。今作は新海誠による自主制作アニメーション処女作であり、僅か4分47秒の短編を2016年3月に、新たな制作陣によるオリジナルストーリーのテレビアニメとして放映された。2016年3月『ULTRA SUPER ANIME TIME』枠内にて『彼女と彼女の猫 -Everything Flows-』のタイトルで放送された。1話約8分で全4話。第4話エンドクレジット後のパートで、自主制作版の冒頭へつながるような演出がなされている。

モノクロで制作された新海版の『彼女と彼女の猫 Their standing points』は、都会で一人暮らしをする彼女が偶然、一匹の猫を拾う物語である。その内容は実にシンプルで、猫=ボク(声=新海誠)の視点から見つめる彼女=キミ(声=篠原美香)の物語だった。大雨、火のついていないガス台、列車の車輪の音、閉まるドア、無言の留守番電話など幾つかのイメージを丁寧に積み上げながら紡いでいく物語は、新海誠の恐るべき才能を内外に知らしめた。篠原美香をモデルにしながらも、都市生活者のヒロインの孤独や焦燥感を記号的に表し、言葉では伝えにくい感情を映像と音の詩情に託した作品世界の切なさが目に焼きついて離れない。その余韻溢れる詩世界とは対照的な、苛烈で素早いショット構成が新海誠の強固な世界観を形成する。先の見えない不安、彼氏とダメになる瞬間の女心、地方から来た人間から見た都会の暮らし、生活感のディテイルがこれ程完璧に詰まった5分弱にはなかなか出会えるものではない。オリジナル版では子猫のミミを愛しながらも、一貫してキミを見つめるボク(=猫)の穏やかな眼差しが心地良い。

2013年の再構築版では、ヒロイン美優の関係性をもう少し外へ拡げている。オリジナルには出て来なかった母親、小学生からの親友であるルームメイト知歌が出て来るが、ヒロインは一貫して父親の不在を抱えている。そんな彼女の姿を不憫に思い、母親がこしらえた黒猫のダルが彼女の癒しとなり、メンターになると同時に、心の支えにもなり得る。導入部分で彼女=キミと猫=ボクはようやく2人っきりの生活を始めるが、彼女の前には社会の大きな壁が立ちはだかる。オリジナル版でも一際鮮明に描写されていたアパートのドアの音がここではより強調され、ドアから溢れ出した強い日差しが外の世界を否応なしに感じさせる。幼い頃から父親不在だった美優と母親のポートレイト、夏休みの宿題の母親の似顔絵。母は出来るだけ娘を自分の目線の届く範囲に置いておこうとするが、娘は強く自立を求める。床に無造作に置かれた就職情報誌、面接した会社から届いた合否判定の紙、浴室のガラスに向かって志望動機を話すヒロインの表情はみるみるうちに曇り、この厳しい社会の洗礼を浴びる。

だがどんなに苦しくても悲しくても、生きていれば必ずお腹は減る。美優とダルが同時に発する「おなかすいたね」という言葉は、人間と猫という別々の時間を生きるキミとボクの唯一の合言葉となる。幼い頃に親、兄弟をカラスの群れに殺されたダルの微かな記憶は、美優と母親の関係性に呼応し、いつの間にか季節は巡る。風の音、抜け落ちたカラスの羽、草原に現れたまばゆい光を放つ夏の扉、水の波紋、高架下、草むらのつやめきなどの幾つかのイメージを並列に羅列しながら、季節は夏を過ぎ、秋になりやがて冬を迎える。2000年から16年が経過し、自宅電話はケータイ電話のバイブ音に変わってしまったが、美優が布団の上に寝転がる姿は、ダルが段ボールの中でうずくまっている姿に呼応する。母親の子宮の中のような外気に触れない居心地の良い場所。常にそこに留まっていたいヒロインの思いは、アパートの重いドアを開けるたびに、雑菌だらけの外の世界に触れなければならない。この広い世界に対峙するキミとボクの構図。永遠の無菌状態を願うヒロインは、ささくれだった世界に足を踏み込むが、残酷な世界をも愛おしく思う新海誠に通底する世界観は処女作から1mmも揺るがない。

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