【第325回】『E.T.』(スティーヴン・スピルバーグ/1982)

 冒頭、森の中に円形の宇宙船が着地し、なかから小さな宇宙人が数人出てきた。彼らは地球の植物を物色し、サンプルを採集しているらしい。1人だけ宇宙船から遠く離れた宇宙人が、崖の上から光の海を見て驚く。それは俯瞰で見る郊外の住宅地の灯だった。そこに突然物音がして、宇宙船の着陸を知った人間たちが宇宙船に向かってくる。宇宙船は危険を察知して離陸するが、先ほどの宇宙人1人は地上にとり残されてしまった。スピルバーグにとって『未知との遭遇』に続くSFもの。今作も『未知との遭遇』同様に、宇宙人たちの飛来の目的は侵略ではない。いったい何を目的にしての来訪なのか皆目見当がつかないが、『スター・ウォーズ』のような銀河系戦争になることも『エイリアン』のように人間が次々に餌食になることもない。逃げ遅れた宇宙人は非力であり、ある一家の納屋へと隠れる。今作でも「見えない恐怖」は実に身近に潜んでいるのである。ピザを買って来るように命令された3人兄弟の真ん中の弟は、ピザを受け取り庭を通る時に、納屋の奥で微かな物音を聞くのである。

主人公である10歳のエリオット(ヘンリー・卜ーマス)は、物置小屋で聞いた微かな音を頼りに家族を納屋まで導くが、そこには誰もいない。深夜、エリオットはトウモロコシ畑で宇宙人を目撃。翌日、夕食をたべながら、エリオットは宇宙人を見たことを話すが、誰も信じない。オオカミ少年のように思われた少年はやがて宇宙人を見張り、チョコレートでおびき寄せる。彼にとって一番の心の傷は、実の父親が愛人と共に、メキシコへと行ってしまったことである。ここでスピルバーグのフィルモグラフィで初めて、父親不在の主題が姿を現すのである。エリオットが学校を仮病で休んで、宇宙人に知識を教え込む場面は、スピルバーグが敬愛していたフランソワ・トリュフォーの『野生の少年』に近い。エリオットは犬に話しかけるように一つ一つの物事を宇宙人に教え込もうとするが、宇宙人の飲み込みのスピードはあまりにも早い。『未知との遭遇』においても五音階を理解し、こちらの演奏に直ぐに言葉を返す宇宙人の驚異的な能力が垣間見えたが、ここでも宇宙人はすぐに人間の言葉を理解・判断し、自分たちのやり方で返そうとする。中でも一番驚異的だったのは、宇宙人は太陽系を遠く離れた星からやって来たことを、超能力でボールを宙に浮上させて説明するのである。この浮遊の描写が後の活劇に活きることになる。

その後の宇宙人とエリオットの相思相愛のエピソードが大人になって観てもさっぱりわからないのだが 笑、中盤の酒に酔っ払った宇宙人とシンクロしたエリオット少年のドババタぶりがおかしい。おそらくここでの大量のカエルの脱走のイメージがPTAの『マグノリア』の奇跡にもつながったのだろう。スピルバーグは『インディ・ジョーンズ/失われたアーク』においてジョン・フォードの『駅馬車』に愛情溢れるオマージュを捧げていたが、ここではジョン・フォードの『静かなる男』のジョン・ウェインとモーリン・オハラのキスシーンの映像をそのまま引用する。少女とのロマンスの行方は遂に描かれることはないが、実に大胆にまたしてもジョン・フォードにオマージュを捧げているのである。

E.T.が瀕死の状態を迎えてからの怒涛の展開はあまりにも唐突に思えるが、スピルバーグは70年代の「見えない恐怖」の登場からゆっくりと80年代の主題となる「抑圧からの解放」へと舵を取る。冒頭、宇宙人の飛来を調査していた人間たちの集団がNASAの人間であると朧げながらわかるが、では彼らがどのような活動の元、宇宙人たちを生け捕りにしようとしているのかの計画や根拠は最後まで示されることはない。エリオット少年にとっての優先順位は、宇宙人を故郷に帰すことであり、怪しげな大人たちの集団からの逃亡に他ならない。ここで兄貴とその仲間たちの力も借りて逃げるのだが、敵がこれまでのように車で追ってくるのに対して、主人公たちは自転車で逃げるのである。活劇の行方は誰の目にも明らかなように見えるが、そこには真にドラマチックなラストが待っている。そこでは『未知との遭遇』以来のインダストリアル・ライト&マジックによる円形の宇宙船の底がゆっくりと現れ、空を覆いつくすのである。これは少年の一秋の冒険譚であり、父性からの脱却の物語である。余談だが『ジョーズ』が塗り替えた最高興行収入記録を『スター・ウォーズ』に塗り替えられた後、再びその記録は今作において塗り替えられた。以降『ジュラシック・パーク』までの11年間、今作の記録は更新されることはなかった。80年代不朽の傑作にしてスピルバーグの代表作である。

#スティーヴンスピルバーグ #ヘンリートーマス #ET

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