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命というものは循環している。死後、生命は燃やされて灰になり、土に還る。そして大地は雨に流され、また新しい生命を育んでいく。

その男性は真っ赤な車に乗って、毎日、電車もバスもない辺境に訪れる。誰とも口を聞くことなく水を入れ替え、花を供え、手を合わせて、誰も気付かぬ間に墓前を去るのが日課だ。

「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかません」
寺で20年以上生活してきたが、この歌詞は真実を捉えていると思った。仏教に最も近い場所にいるにもかかわらず、私は仏教のぶの字もしらない。そんな私にとって墓はただの石だった。「空海は明けの明星を飲み込んで大宇宙と一体となった…」という説法をお笑いぐさにしている私に、宗教の存在意義が分かるわけがなかったのだ。

日本人の約6割は無宗教と言われ、仏教や神道などの伝統的な宗教法人は年々その数を減らしている。みな親族が亡くなると葬式を開き墓前で手を合わせるにもかかわらず、仏や神を信じていると断言する人はほとんどいない。宗教が文化に溶け込み境目が見えなくなっているのだ。だから生活にあった宗教だけが生き残り、古くさいものは淘汰される。タイパなんて叫ばれる時代に、四十九日、一周忌、三回忌…と法要を続けるのはナンセンスなのかもしれない。

男性は雨の日も必ず花を供えた。休日には夫婦で手を合わせ、念仏を口ずさむ。でも、彼らは熱心な信者というわけではない。
念仏は仏のためではなく、早くして亡くなった、自ら死を選ばなければならなかった娘に捧げられている。娘の自殺を受け入れられなかった彼らは、ひたむきに手を合わせ、説法に縋ることで残酷な現実と向き合えている。そうするしかなかった。そう考えてはじめて、私は宗教というものの存在理由が分かった気がした。

仏を信じるというのは言葉ほどきれいなものじゃない。いつも心に仏を持つというわけではなく、自分が辛いときに縋り、日常の9割は頭の中からいなくなる。自分勝手なものだ。オウム真理教とか旧統一教会とか、暴力的なカルトの出現で人は都合の良い盲信を拒んでいった。心を奪われることを恐れたため、辛いときに縋ることすら憚る。そして、「私は神を信じない」と言うのだ。

宗教って正直よく分からない。でも、もっと都合良く考えて良いと思う。大切な人がいなくなったときとか、どうしても受かりたい試験の前とか、誰かが一瞬でも救われているなら頼られた神や仏もきっと喜んでいるだろう、と思うくらいがちょうど良い。

灰から土になった生命は雨に流され、いつかいなくなってしまう。でも、誰かが都合良く縋って墓の前で手を合わせて続けている限り、そこは死者の居場所になる。命は循環する。でも彼の娘だけは雨に流されず、ずっとそこで父を待っているに違いない。

                      text/萌木

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