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正解を求めることは、もうやめた

こんにちは。長田(@SsfRn)です。

僕が昔の自分と比較した時、大きく変わった価値観のひとつに「正解を求めない」があります。

今の時代の教育では、どうしても正解を求められ、テストでいい点数を取ることが求められ、そのひとつの基準で優秀かそうじゃないかを判断されてしまいます。その中で生きてきた僕らは、どうしても正解を求めてしまう。

今日はそんなお話を。



正解を求めた先に感じた苦しさ

今の僕もそうかもしれませんが、どうしても正解を求めて選択をしてしまうことが自然とありました。

わからないことがあれば、その答えを知っている人にアドバイスを求めるし、正解が書かれていることを期待し本を漁る。

その行動に対して、疑問を抱くことはなかったし、正解を求めることが”正解”だと思っていました。ごく自然な行為だと。

でも、そんなことを繰り返している時、ふと気がついてしまったんです。

「正解を知ったとしても、その結果必ず成功するとは限らない」ということに。例えば、誰かの成功体験を聞いても、多くの場合がその人の環境でその人の人柄でその人の時代だから成功した、と様々な要因が重なって初めてできたことであり、そこの再現性は限りなく低い。もちろん、参考になる要素も多いのは重々承知です。

そこに気が付き始めると、だんだん正解を求める行為自体が苦しくなるんですよね。人がつくった枠に収まろうとしている、自分がいることに気がつく。

自分自身の幸せは自分でつくるしかないはずなのに、知らぬ間に人の幸せをなぞっていたんです。人の情報に触れることが多いこの時代だからこそ、どうしても引っ張られてしまうのかもしれません。



”内”と向き合う時間をつくる

こんな時代だからこそ、自分と向き合う時間をつくることは非常に大切。

僕にとっては、それが「書く」時間なんです。このnoteを書いている時間で、自分との対話を繰り返し、そこから出た言葉をこうやって文章として綴っています。

この時間をつくることで、誰かがつくった”正解”から脱却できるような気がする。自分の内なる声に耳を傾けること、それが殻を破る1歩目かもしれません。

これは、個人の話に限らず、どんな話にも通ずると思っていて、それが組織でもビジネスでもプロジェクトでも一緒なのかなと。フレームワークや理論とか、参考になる情報は確かに存在しますが、それはあくまで参考程度。正解ではありません。

だけど、そこを勘違いして、正解だと思い込み、その枠に当てはめようとしてしまうからこそ、歪みが生まれてしまう。そうではなく、「なぜこれやるのか?」に向き合い、利益とかそういう次元ではなく、「社会にどんな価値を提供していきたいのか?」と向き合うことが大切。企業都合の施策なんて、すぐ見抜かれてしまいますからね。



最後に

イベントに登壇する前だからこそ、書いておきたいのですが、僕は正解を示すことはできません。特に、コミュニティの世界では「正解」なんて存在しないのですから。

でも、可能性を一緒に探求することはできる。立場の垣根を超えて、一緒に模索することを、イベントではやっていきたいなぁと思っています。「イベントは運営者・登壇者・参加者、みんなで良いものにするもの」これも昔では気がつけなかったことのひとつです。

今夜と日曜日、イベントでお会いするのを楽しみにしています。それでは!


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