語彙感染2
「2」なんて書くつもりじゃなかったんだけどな。この一か月の間に、なんということなしに通り過ぎていてほしかった。けれど事態は日に日に深刻化し、いよいよ「感染者数以外の、昨日と今日の違いに目を向けましょう」とも言ってられなくなってきました。
人は話すことがないと、天気の話をします。でも今は天気の代わりに、あいつの話をします。話題が途絶えるといつの間にやら顔を出す。僕も含め、みんなの頭が、心が、言葉が、徐々に感染しています。
僕は人の悪口を言うのが嫌いです。理由は二つ。
まず一つは、楽しいからです。よほど心が綺麗な人は別にしても、悪口を言うのは楽しい。試しに誰かの悪口を言っている人をじっくり見てみると、意外とキラキラした顔をしていると思います。でもそんな、自分は何の苦労もせず、かつ他人を踏み台にして手に入る安易な楽しさが僕は好きではありません。
(と言いつつ僕だってたまには悪口を言いたいときもあります。なんてったって楽しいから。鏡は見せないでくださいね)
二つ目の理由は、そこにいないのに、わざわざ嫌いなやつの名前を口に出すのが嫌だからです。せっかく一緒にいないというときに、その人の名前を言うのに口のエネルギーを使いたくない。嫌いな人のために使う言葉がもったいない。
だからあいつの話をするのも嫌いです。左脳にお肉、右脳にお魚が詰まった政権の悪口を言うのも本来あまり気が進みません。(楽しいから)
先週かな、仲のいい友達とご飯を食べに行きました。お互いのこと、最近の出来事、何を大事にし、どう生きていくのがいいか、話していたら夢中になって、このご時世というのに顔を合わせてから少なくとも二時間はあいつのことは忘れていられました。僕たちの脳内から、語彙から、少しの間だけでも追い出せたのです。
タンパク質が豊富な政権に対しての周りの人々の反応を見ていると、大きく二つに分かれるような気がします。一つは多少なりとも信頼していた政府がこの有事にまったく役に立たず、驚き、がっかりする者。そしてもう一つは「それ見たことか」と言わんばかりに、冷笑的な態度で政府の無能っぷりをあげつらう者。
それがいけない、と言いたいのではありません。むしろ正しい反応だと思います。でもそれはあくまで “反応” であり、“働きかけ” とは違う。« reaction » であっても、« action » とは言えません。何かを変えられるのは « action » だと、僕は思っています。
今の政治は、どうあがいても普段のみんなの « action » の集積です。
マスクの買い占めも付け焼き刃の政権批難もこれは全部 « reaction » で、日頃自分が何を考え、何を伝え、何をするかが « action » です。« reaction » が大事なのはもちろんですが、« action » はもっと大事というのもまた言うまでもありません。
これが誰にとっても自分の生き方を見直すきっかけになり、大きく形を変える社会の中で、どんな形であれ自分から働きかけられるようになりますように。そしてそれによって、あわよくば、何があっても自分の精神は自分で守れるようになりますように。
そんなことを思いながら、僕たちはいつも塾を開けています。
(2020.3.27 志村)
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