もやもやの正体はなんだ
今回は、昔好きだったある女の子のことを書こうかなと思ったのだが、しょうもないことがあって、なんだか怒っている。それで違うことを書こうかと思ったけど、今日あったしょうもないことのせいで、言葉を発する徒労感がある。
私は、自分に対して抑圧的なところがあって、その一つが自分の発言・発話にある。理由としては、もちろんたくさん失敗してきたからで、今も調子にのるとすぐに失敗する。ただ抑圧的な理由としては、何よりも失敗した自分への対処の仕方をその度に間違えてきたからだと思う。
その結果として、発言する前に考えるということがわりと日常的にある。
そのせいでなのか、あほみたいな攻撃的なことを言う人を目の前にすると、まず唖然とする。
私は、相対的におもしろがるタイプだけど、たぶん何か線があって、それはそんなに狭い幅のものではないんだけど、そこを越えると、はぁ?となる。
この前カラーセラピーみたいなことをしてもらって、そこで、過去の自分のムカつきみたいなものの奥底にあるものが見えた気がした。
うんざりの正体というのかな。
最近は投げ出しているが、少し前、私はケアラーとしての側面が強くて、ある特定の人たちにとっては大変よいケアラーだった。
ずいぶん投げ出したけど、今でもまだその性質は残っている。
ケアラーとしての時間はいいこともあったけど、それは自分を都合よく扱わせることを許すものでもあった。
それは他人だけじゃなくて、自分が自分自身を都合よく扱っているということでもあった。
そういうことに飽きた。
つまらないつまらないとなんとなく思うときがあるのは、自分を都合よく扱ってきたツケみたいなものだ。
今日も私は面と向かって怒ってもよかった。
でもそうしなかった。
ようそんなこと私に直接言うなという驚きもあったし、言ってもしょうがなさそうという直観があって、そうしなかった。労力を惜しんだ。
でも、じゃあ、元々のきっかけ?となった自分の言ったことを後悔しているかといえばそんなことはない。
言い方があったね、と、自分もそう思うとこもあるけど、発した内容は当たっている。
これまで対処を間違えてきた、というのは、その言い方というものに注力してきた、しすぎてきたからだ。
いま私は考えている。新しい扉の前にいる気分。新しい対処の仕方はなんだろう。もやもやしてるひとつの、これまでやってきた言い方への注意じゃなくて、次からどうしたらいいのかってことがわからないからだと思う。
根本的に、ひとを理解したいというのが、どうしてなのか常に自分前提にある(他人への興味の有無はたぶん関係ない。興味なくても理解したいと思うことはたくさんある)。
他者とは話さなければ、わからない。
まあ話してもわからないこともたっくさんあるんだけど。
今もまだモヤモヤしている。
もやもやへの向き合い方を考えている。
(三木)