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漠然とした寝た子

9月の後半から1ヶ月くらい体調が悪い≒ひどい腰痛のせいで、加えて仕事開始、+締切に次ぐ締切で、1ヶ月くらい慢性的に機嫌が悪かった。
北海道だって行ったのになぁー。これまで北海道にいくときは常に真冬の極寒の時期だったので、こんないいときはなかったのに、たったの1泊。本当に用途しかすませないで帰って来た。
あ、スープカレーは食べた。

機嫌が悪い期間の終盤、あるテーマを準備するのがもうつらくてつらくて、ファンドもいったん終わるし、このテーマは今年度いっぱいで1回寝かせようと思った。

今回は自分のための文章という要素が多いので、この先、全般的に色々ぼやかして書きます。
私はわかっていて書いていますが、端から読んだら、わからないところが多いかもしれません。

さてこのつらさ、何がつらいって、プレッシャーとかじゃなくて、当時の資料をみていて、おいおいこんなこと本気で言ってんのかと思いながらやるのがつらい。わくわくしない。
こういうこと本気で言っちゃう人たちがいる(存在している)のはわかるし、その本気さもわかるが、もちろん共感はしない。が、共感しないことが問題なのではない。それは私にとっては別に重要ではない。
その理屈のこじつけ方のあまりの馬鹿馬鹿しさに、そんなんどう考えても違うやろと思う気持ちが先に立つ。その影響がその後しばらく(また驚くことに現代においても!)続くことを考えると、大事なテーマだなぁとは思うんだけど、なんでこの馬鹿馬鹿しさに付き合っているんだろうと、どうしても思ってしまう。
なんというか馬鹿馬鹿しさに付き合っているのがしんどくなってきたんですね。
でも、だいたい自分にとってのキリの良さが見えてきたので、それ以上に深められることもわかりながら、とりあえずこれから一旦手を放そうと思った。

わりに自分にとっては当たり前だよなぁと思うことを、ここ数年間やってきた感じがある。自分にとって当たり前でも、他人から見たら真逆で、私から見ると、げーそれはヘイトやん、みたいなことを平気で垂れ流されたりすることもあるので、それは結構しんどい。そんなのに向き合わなくていい、真面目に相手にするだけ馬鹿みたいという意見もあるし、話にならないのはお話にならずで相手にしなくてよいと、私も思ってた。

私は歴史研究をしているが、別のいろんな領域の人たちと会うことのほうが多い。ある程度大きくなって、自分がかけている眼鏡(比喩だよ)には学んできたこと、自分のやってきたことの影響がかなり強く出ていることに気づいてきた。
何かある対象をみるとき、私はその背景や成り立ちみたいなことについてすぐに考える傾向がある。今あるそれが過去の蓄積の最先端にあるように、ある種の立体で見えているのだと思う。
別の眼鏡をかけている人から見たら、その物事はまったく異なる見え方をしているんだろう。

物事や考え方というのは、歴史的にけっこうな頻度で繰り返しているようにも見える(単純にではなく複雑な繰り返しであることもある)。
とくに今このときは繰り返しのループに入りましたーというように見えて仕方ない。
そこにあまり新しさはない。新しくなくて、過去のガラクタを引っ張り出してきて、すげーすげー言ってるように見える。私にはガラクタに見えるが、別の人からはキラキラしているものに見えるのかもしれない。そのガラクタはハリボテだよ、一体騒いでる人たちには何が見えてるんだよと思うし(理屈はわかっても現代の、その見ている世界は見えない)、辟易する。前に書いた馬鹿馬鹿しさとも通じるところかもしれない。

当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなくなりつつあるのかな、というのが数年間の実感として少しある。
さすがにこんなことにはならない、こんなひどいことは起こり得ないと思っていたことは常に現実に起こることによって裏切られる。
そんなことは10数年前から知っていたのに、いまだに唖然とする。このことには慣れない。

ある人から見たら、もう終わったことじゃんと思えるようなよくない考え方をあえて示すことは、わりと嫌がられる。私もかつてはそうだった。
そのことでよくない考え方の再生産につながると言われることもあるし、別のアプローチがあるとも言われる。これはよくわかる。

しかし困ったことにまだそれはいきていて、それなりに力を持っていたりする。
前提としてのよくないことという共通理解がなくなってたりするんだなとも思う。
もしそれで苦しまなくなってきているとすれば(あまりそうは思えないが)、それはそういう場の構築が過去を通じて蓄積されてきたからだとも言える。歴史的に勝ち取ってきたものだとも言える。

よくないという共通理解が失われると、汚い言葉で主張されたり(必死にみえると捉える人もいる)、さも合理的なようなニュアンスできれいな言葉でくるまれたりして、人はあっという間に、もう何度も確認されたおぞましいとも言える良くなさに戻ってしまう。しかもそれがさも今まで知られていなかった、新しいことのように。
(こういうのを見る度に、姿月あさとverトート閣下の「ちがーーう!!」が頭のなかで鳴り響く)

ある種のよくない考え方を脱却するために、かえって、そのよくない考え方に閉じ込められるということはある。
でも、こんなことは起こり得ないだろう、お話しにならずと通ってきてしまった自分自身を振り返ると、どうだったんだろうと思う。
そして、今はお話しにならずでは済まなくなってしまった時なのかなぁとも。放っておくとどんどんひどい有り様になっていく。これは経験として、実感としてある。

要は、語りかける相手が誰か、どんな人なのか、っていうことでもある。私の複数の仕事のうちのひとつは、たぶんその対象が、何て言うんですかねぇ、自覚していない人たちなのだ。意外でもなく、わりと多い。しんどい部分ももちろんあるし、おいていきたくなることもあるんだけど、それが動力なのかなという気がしている。

自分がかけている眼鏡の動力はまた別なんだろう。
私は自分にとっての新しいものを見たい。私のわくわくするものを見たい。それがあんまりきれいなものでないことを知ってるけど、私にとってはとてもキラキラしたものだ。そこが面白い。人間って面白い。一筋縄でいかない。たくましい、狡猾だと思う。そこがいい。
複雑だから面白い。きれいじゃないからいい。私にとっての面白さは細かいところにある。
これはいきなり説明するのは難しいので、前提となるものがあるのかな、これは自覚したあとの段階にくることなのかなぁともちょっと思う。


(三木)