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部外者はなんの立場でどういう言葉を使えばいいか−−−−犯罪ルポや手記を読む

重い心を押し込めて、これを一回記事にしておこうと思う。

ここ数ヶ月のわたしと言えば、5月に倒れ、6月に病気が判明してから、息抜きにヘイトクライム・ヘイトスピーチ法の勉強してたんである。

あと、犯罪の加害者・被害者関係、特に親子の間のもの。殺害や暴力が起きた時に、親が加害者で子が被害者の場合か、子が加害者で親が被害者の場合か。家庭内で起こる殺傷事件や、その原因となる不全家族。

そしたら、しんどくなってしまって。息抜きになってねえ!

あるヘイトクライムの専門家の先生は、あとがきで、ヘイトクライムの勉強していると、世界にはヘイトクライムが満ち満ちて、暗澹たる気持ちになるでしょう、と書いていて。うん、なる。本当に、人間はどうしようもなくて、やるせなくなる。

今、手術までの間にきっつい薬を打っていて、それの副作用で、ものすごく気分が沈む。なので、もう、いけないいけない。大大大大好きだった犯罪もののドラマとか、つらすぎてかなしすぎて、観れんもん。

なので、諦めました。薬打っている間は、観念して、ヘイトクライムとか人間に備わっている害意の研究とか、お休みしようって。

代わりに、明るい気持ちになるドラマ観て(Drop Dead Divaいいね!)、古事記や古代叙事伝承の勉強したり、仏像の勉強したりしてる。つらくなったら、HiGH&LOWの映画観に行く。何度でも。

2では、スモーキー(窪田正孝)は2、3カットしか出てきてないが、天使。うつくしい男が満載の豪華ミュージックビデオ。みんなすてきだが、ROCKYと村山とKIZZYとピー(パルクールってすごいね!!!)と広斗とコブラとヤマト好き! 日向(林遣都)大大大好き!!!

さて、本題であるこのトピックの記事は、正直どう書いたらいいのか迷う。

所詮部外者が、好き放題にほざいて、当事者を傷つけるのはいやだが、どんなに言葉を選んでも、部外者が、好き勝手、は拭えないと思う。

いくつか読み終えたもののまとめと雑感。

『淳』…光市母子殺害事件の被害者遺族・本村洋さんを支えた刑事が、事件の少しあとに本村さんに少年法の問題を一緒に勉強するためにと買い与えた本。神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)の被害者遺族による手記。

『死刑のための殺人 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録』…新聞記者たちが、加害者のロジックを理解しようと努力して37回接見した記録。同時に、人と接することで加害者が変わるんじゃないか、人間らしい感情を取り戻して罪の重さを自覚するんじゃないか、期待して働きかけてる。

読んでて、記者たちのコミットメントは思い切ったものだと思うし、被害者遺族の感情を配慮して、加害者へのコミットメントを躊躇する姿勢もバランスがいいと思った。自分のメンタルヘルスを配慮して、ある時点で踏み込むのを止めて距離を取ったのも、適切な判断で、すごいと思った。

ただ、肝心の、加害者のロジックの読み取りは、記者も弁護士もずれてて、加害者の発言に振り回されて「死刑を欲する者に、死刑を与えるのはご褒美ではないか。システムの限界ではないか」とか言ってんのは、育ちや人生が恵まれた人らはなんかとんちんかん、という印象。

この2冊読んでて、気持ちが悪かったのは、どんなに言葉を少なくしてても透けて見える、加害者の方の機能不全家族。加害者の親が気持ちが悪い。

家庭環境が、メンタルに劣悪(経済的には中流以上)で、それは司法における罪と罰の等価交換には関係がないんだけど、家族の機能不全があまりに社会に蔓延化しきってて、

子どもを家庭内に囲い込んで、私物化して、窒息しそうな環境にいさせたら、逃げ出せる子はいいけど、逃げ出せる諸条件がなく、逃げ出せない子は、自分を殺傷するか他人を殺傷するかのチョイスしか手の中に残らなくなるのか。

って、思わされる。

『「子供を殺してください」という親たち』
『子供の死を祈る親たち』

著者の押川剛さんは、10年、20年と引きこもりをして、DVや親の奴隷化が極まった家族を支援してる。

おもしろいのは、押川さんはそのような家族の、親やきょうだいから相談を受けて「対象」を医療につなぐ移送をする民間サービスをやってるが、押川さんは、はっきりと「支援対象=子ども(すでに30〜50才だが)」としてて、移送のあとは「対象」の自立支援のために、親から引き離して、自分の周囲の人的ネットワークの中で、親が与えた毒の呪縛の代わりの、育て直しを試みてる。

依頼主は親で、移送・自立支援の初期費用を払うのも親なのに、押川さんは親目線で動いてないのが、すごいと思った。

自分らが子どもをぶっ壊した挙句、捨てたいから、代わりに捨ててくれ、と依頼に来る老親の、限界がきてるのも理解してあげつつ、子ども(中年)のウェルフェアを長い目で考えて、それを優先順位一番にしてんのは、すごい。

金を払うやつのニーズを、一番にしない。けど、現被害者かつて加害者(親)と現加害者かつて被害者(子)の両方の生存を実現しようとするガッツも、手腕・才覚もすごい。

押川さんの文章読んでて、写真見て、捻れ開閉かなあと思った。

押川さんが支援してる家族の共通性として「中流以上で、親が金にきたない価値観」というのが、せつない。

金あるんだ?…なのに、金にきたないの???…って。

子どもに「お前にいくらかかったと思ってるんだ。失敗すんな!」って言っちゃうような親。

元気になったら読もうと思っているのは、
『親を殺した子供たち』
『光市母子殺害事件』
『累犯障害者』

『死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人』には、京都少年鑑別所法務技官で精神科医の定本ゆきこ先生のインタビューが載っているのだが、それもとても感銘を受けた。定本先生の論文も読みたい。

まだ上手く言えないんだが、わたしはたぶんこういうことが知りたいんだと思う。

子どもがまだ幼い時に、親という全方位的な存在から、悪意(親とは別個の人格だと見なさない、親とは異なる特性を許さない、親の期待以外のことをすることを許さない、など)を受けた時に、それは単に「ある他者からの害意」で済まない。

全方位的=逃げ場がない=心理的窒息の危険がものすごく高い=体も毀れる

この時、この子自身の個体にリソースがあった場合、物理的にエスケープし、全方位的な害意の外に出ることが稀に可能になる。逆にリソースが限られている場合は、自分を害するか他人を害するかまで追い詰められ続ける可能性が高くなる。

そして、人間の個体が持つリソースは、上手く言えないんだが、非定型発達の場合の方が制限されていることがある。つまり、一番逃げた挙句に生計が成り立って生きていけるのは、物理的・知的・機能的・精神的に定型発達をしている者の中でも、資質に恵まれた特別な個体だけで、条件が不利になればなるほど、害意の中での生存は高くない。

人間の生存は、ラッキーな条件のやつだけが生き延びれる社会の下では痩せ細る。いかなる生まれで、どのような体(肉体と心の融合物)を持っていても、いい人生を送れる状態になっていないと、ウソだと思う。

ヒトという種を花開かせようとしたら、すべての個体は、ふくふくつやつやして、ハッピーな一生を送んないといけない。そのために、制度や頭ん中の考えが偏ってたり、腐ってたりするんであれば、それは全部全部良くなっていった方がいい。

そうすれば、追い詰められて、自分という個体を消したり、他者という個体を消す、という哀しい目に合う個体がいなくなる。そんな哀しいことは起きちゃ、わたしはいやなんである。

そうならないために、どのような思い込みを打ち砕き、どのような制度が必要なのか。それに今取り組んでいる人たちは誰か。

家庭からエスケープした挙句に、水商売の世界で、リソースがあったゆえに生計が立つ少女たちと、障害などによって制度や就労からどんどんこぼれ落ち、底辺に転げ落ちて行き、現代の日本社会の最底辺・最貧困層になる少女たちに寄り添った鈴木大介さんのルポも、とても勉強になる。捻れ体癖的に、あたたかくていい人。他人事としてかかわっているんではない、どっぷりコミットしてしまっている人の言える言葉と、人生。

『家のない少女たち』
『援デリの少女たち』
『最貧困女子』

ヘイトクライム=憎悪犯罪(マジョリティが加害者、マイノリティが被害者で、社会の差別構造に乗っかっておこなわれた犯罪)については、また別の機会にしゃべります。

日本のヘイトクライムのルポはまだ少なくて、その中でのしっかりしてるのは、

『妄信 相模原障害者殺傷事件』
『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』

この2冊は読む予定。

(まりお)