僕が文章を書くわけ

僕は今「僕が文章を書くわけ」という文章を書いています。でも、本当は自分が文章を書く理由なんてわかりません。わからないというのは、理由があるかもしれないし、ないかもしれないから、どちらとも判断ができない、というのが自分の理解です。

文章を書くという本質はものを伝える、というところにあると思います。伝わるか伝わらないかわからない人の思いや考えや心の動きを、伝わると信じて文章を書く、と思っています。本当はみんなにすでに伝わっているかもしれないのに、1番伝わる、と思う具体例、言葉選び、句読点の配置、段落構成、普遍性の説明などを用いて文章を書くと思っています。でも、どれだけ知恵を絞っても、言葉を使う限り、言葉で伝わるか伝わらないかはわからないと思います。だから、ベストセラー作家の文章を読んでもピンとこない、ということが起こるんだと思います。

僕は子供の頃から言葉を使うのが苦手な子供でした。嫌なことがあると泣き、嬉しいと笑い、歌や演劇で、自分の伝えたいことが伝わるかもしれないと思いそれらをしてきたと思います。

けれども、最近言葉で何かを伝える、ということが楽しく感じ、たぶん得意になったと思います。書き始めてからは時間の限り書くようにしてきました。

僕は、今まで投稿してきたnoteにその文章をぶつけてきました。自分の思いつく限りの言葉を、文章と呼ばれる形式になんとか落とし込んで公開しました。

けれども、言葉を尽くしたところで一向に伝わる気配はないようでした。たくさんの感想をもらいながら、同時にたくさんの心配や反対意見を受け取りました。僕が医師からうつ状態と診断を受けたと知っている人は、躁鬱の躁状態で文章を書いている、と思って心配してくれました。もちろん自覚はありました。僕があることを伝えようとすると、そのあることからはみ出た部分が出てきて、伝えられないこととしてそのあることと矛盾してしまいます。大きなことを世の中に向かって言えば、とても身近な人を傷つける、と思いました。

伝える、ということは、何かをする、とも
言い換えることができます。何か方法を取ると、その方法を取らない別の手段がなくなってしまいます。言葉を尽くすよりも、一滴の涙を流した方が伝わるということもあるかと思います。

ある人にとって、そのある人が自分で経験した出来事に近いほど理解がしやすくなります。ソクラテスは道端で出会った人をつかまえ、その人の経験を話させ、時にそれを否定しながら真実を伝えようとしましたが、あまりに個人の出来事に注目しすぎて、彼が出会える人数は有限であったため、時間が足りなくて死んだ、と思います。なぜソクラテスを例に出したかというと、無知の知という彼のスタンスを理解したと思っているからです。全てはわからない、と言い換えてもいいかもしれません。そうとは言い切れない、ということすら、言い切れないかはわからない、と言えるのでこのことの意味の中にいます。メビウスの輪と同じ原理です。

このことを理解してもらえれば、僕が文章を書くわけが理解してもらえると思います。

僕が文章を書くわけは、文章を書く理由がわからないけど、文章を書いているからです。

素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。