Strawberry Fields Forever
最近文章に触れてないので何か書かなきゃ~と思った
「イチゴ畑よ永遠に」ではない。「ストロべリー・フィールズよ永遠に」だ。ジョン・レノンは幼少期にStrawberry Fieldという戦争孤児院の庭で遊んだという。リバプール郊外にあるそれは検索してみると存外暗い印象である。
👆一度見てほしい
よその国の観光名所にケチをつけるようでなんだが、不気味ではないだろうか。柱のくすんだ色合いとちぐはぐに明るい真っ赤な扉のせいだろうか。(あと、天候のせいも大いにある)
「Strawberry Fields Forever」にもこれと似たちぐはぐさがある。牧歌的な雰囲気の金管の音と妙な不安を抱かせるようなストリングスに、歌詞も明るいんだか自暴自棄なのかわからない。詳しい解釈はビートルズおよびジョン・レノンに十分に詳しい方々に任せるとして、少しだけ自分語りをしたい。
Strawberry Fieldsはジョン・レノンの一種の原風景だ。奥野健男は『文学における原風景』で原風景について「自己形成と絡み合い血肉化した、深層意識ともいえる風景」と定義したが……。小さくて何も知らなかった、むしろある程度の無知が美徳とされていたころにみた風景。無知でよくて、漠然と楽しかった記憶。
私たちは何を知っている?何か学んだか?どこに向かって進んでいる?これらの問いに答えられなかったとき、答えようとしなかったときその足取りは自然とStrawberry Fieldsに向かう。そこはすべての停滞を許容する、後退すらも。そこの入り口は一つしかなく、どこか新しい場所につながっていることはない。前進はない。
これを考えるとき、毎度中学生のころのほんの数か月ほど学校に行かなかったときのことを思い出す。今思い返せばちょっとした容姿の揶揄いで、まったく大したことがなかった。
靴。家を出ようと玄関で靴を履いて、うだうだしてから結局靴を脱いでいた。なにかしている感が欲しくてインターネットばっかりしてた!
でもあの頃に戻りたいとか、もうすこしマシだったころに帰りたい(本当にマシだったころなんてなく、たぶんそう思いたいというだけの虚構なのだが)とか、もっと良くなりたい(でも努力はしたくない……)とか、そういうクソみたいな中身のない祈りはやめられない。馬鹿だからだ。ここではないどこかに行きたいくせにどこにも行けない、どこかに行く力がない、ここがどこなのかもわからない。そういう人間がどこかに行った気になるために帰るのがStrawberry Fieldsだ。最悪だ。楽だけど。
まあたまには覗いてやってもいんじゃないかなとは思う。永遠に、いつだって足を休められるのだから。
勢いで書いちゃってなんかごちゃっとしたものになってうまくまとめられなかったのでもうちょっと知識を仕入れて頭がよくなったら書き直したい。深層心理と原風景と、あと構造? 口先のモチベーションだけはほんと立派で困る。あ~あ。
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