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何もかもが溢れている時代しか知らないで生きる不幸

朝、何を食べたか思い出せない。歳だからというのもあるのだけど、食べものを食べるときに「心ここにあらず」となっているのが主な原因だと思う。テレビを見ながら自分には関係ない話題に集中したり、仕事が気になったり。

「イワン・デニソビッチの一日」という本がある。戦時中の強制収容所に捕らえられた、イワンの”一日”について記された本だ。収容所のひもじい食生活の中でイワンは幾度となく、故郷の村で過ごした日々を思い出し、次のような回想をする。シューホフというのはイワンのことである。

ジャガイモをフライパンに山盛りたべたし、雑炊は一鍋そっくり平らげたし、もっと前には肉の大きな塊を食べたこともあった。牛乳は腹が裂けるほどガブ飲みしたし。しかし、あれはまちがっていたのだと、収容所にはいってからのシューホフは思った。たべものというやつは、ちょうど今シューホフがこの小さなパン切れを食べているように、全神経をそのたべものに集中して、舌でよく味わい、口のなかでさんざんころがさなければいけない。そうすれば、この湿った黒パンのひと切れが、どんなに香り高く感じられることか。

「イワン・デニソビッチの一日」(ソルジェニツィン著)

 戦時中の強制収容所で配給されているパンが、決して豊かな味ではないことは明白なのだけど、この文章からもそのパンの香ばしさ、おいしさが伝わってくるから不思議だ。食べる喜びをより多く味わえているのは、2021年を生きている日本人のわたしよりもシューホフの方に違いない。たくさんたべられるからとか、なんでも食べられるという理由で幸福な食事になるというのは完全な思い違いである。

「全神経をそのたべものに集中して、舌でよく味わい、口のなかでさんざんころがさなければいけない」というのは、たべものが溢れている時にやらないというのは、皮肉だ。どうすれば食べ物に全神経を集中できるだろうか。食べ物が不足している未来を想像するといいかもしれない。日本の景気が悪化して、大恐慌がくる。その未来では食うに食えない状況だ。あの頃食っていた食べ物のひとかけらでも良いから食べたい、と思うだろう。いまは、その未来から見た過去の一日なのだ。と、思い込む。

これは、生きると言う文脈でも同じなんじゃないだろうか。やろうと思えばなんでもできる現代の日本で、いま生きていることを楽しめていないのは、逆に何もかもが溢れているからだろう。あんなこともこんなこともできちゃう状況を感謝して楽しむために必要なのは、何もかも(権利やお金や技術・・・)が不足していた過去について知ることなのではないだろうか。

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