『そのカプセルの名は絶望薬』(ウマ娘)

 はて、とアグネスタキオンは首を傾げる。『研究には犠牲がつきものだよ』だなんて偉そうに口にしたのは、果たしていつの話だったか。
 確かカフェにそんな話をしたようなしていないような……と、彼女の思考はふらふら泳ぐが、しかしそれは断言出来るほど明瞭な記憶ではない。そして加えて言えば、今のアグネスタキオンは何かを断言出来るような精神状態でもなかった。

――目の前で、一人の人間が倒れている。

 それはかつてはトレーナー……或いは、彼女にとってのモルモットだったものだ。
 小馬鹿にするようにモルモットと呼びつつも、アグネスタキオンは彼に対して、確かな好意を覚えていた。だからこそ、本当に危険な実験に付き合わせるつもりなど皆無だった。

 なのに、これはどういうことだろう。
 その口元から垂れる泡ぶくは嘔吐の色に染まっており、開ききった瞳孔には生気がない。心臓はピクリとも動いておらず、呼吸の音も消えていた。

「トレーナー君?……冗談、だろう?」

 アグネスタキオンは膝をつき、倒れるトレーナーの肩を揺する。しかし反応はなかった。
 「生物に触れている」という感覚がまるで返ってこない。目を閉じればそれだけで、自分が何を揺り動かしているのか分からなくなった。

「え?……は?」
 
 ほんの数分前まで笑い合っていたはずだ。ついに薬が完成したと、二人で手を合わせて騒いでいたはずだ。
 夢の果てへと手を伸ばし、可能性の先へと辿り着いたつもりだったのに、どうしてこんな絶望が目の前にあるのか。

「失敗、したのか?……いや、………そんな訳は」

 顔を持ち上げ机の上を見ると、檻の中の一匹のモルモットが、尋常でない速度で回し車に興じている姿が見える。それはモルモットが種の限界を超えたという、何よりも分かりやすい実験成功の証拠だった。

「……トレーナー君が、死んだ。私のせいで?」

 現実感がない。自分が立っているのか座っているのかすら、ハッキリとしなかった。

「……ッ」

 ふと、そのとき。
 トレーナーの胸元から一冊の手帳が落ちた。

 唐突な物音に身を震わせ息を止めるが、その正体がただの手帳だと知ると、荒い呼吸を再開させる。

「これは、トレーナー君の……」

 手帳には数えきれぬほど大量の付箋が貼られ、何度捲ったか分からないくらいにページの端は擦れていた。表紙には『アグネスタキオン』とだけ大きく書かれている。
 恐る恐る手に取ってみると、その中には自分ですら知らない己のレースの癖が、紋様の如く無数に記されていた。一体どれだけの時間を費やせば、ここまで書き込めるというのだろう。

「……私の、為に。ここまで」

 手帳を持つ手が震えて止まらない。
 気づけば頬を涙が伝っていた。

 手帳に水滴を落としながら、どうにかページを捲っていく。視界が霞んでほとんど何も読めはしないが、しかし今となっては、その手帳だけが最愛のトレーナーを傍に感じる最後の手段だった。

「……?」

 ペラペラと先へと進んでいくと、唐突に紙の白が目立つページに着いた。それまでのページがほぼペンの色で染まっていただけに、むしろ空白の多いページは目に付いたのだ。

「これは……日記?」

 アグネスタキオンは瞳を拭い、その文字列に視線を走らせる。

『[12/24]――どうやら薬の影響で、昨日の記憶を失ってしまったらしい』

「は?」

 一節目でアグネスタキオンは固まる。何の話だか分からなかった。

『つい先程まで、今日が23日だと勘違いしていた。アグネスタキオンとの会話の中でどうにか気づいたが、23日に関する記憶が完全に抜け落ちているようだ。恐らくは最後に飲んだ彼女の薬の影響だろう』

 知らない。聞いてない。そんな会話をした記憶はない。
 どうして私に相談しなかった、とアグネスタキオンは歯軋りをする。

『だが彼女に悟られなかったのは幸いだ。明後日には有馬記念を控えているのに、余計な不安は与えられない。今回は黙っておくことにしよう』

「……ッ!」
『それと、再び記憶障害が発生したときのことを考えて、これからは薬を飲むたびにメモを残すことにする。「忘れたこと忘れる」なんて状態だけは避けたい。……この大切な手帳を毎日開く癖だけは、何があっても絶対に消えないはずだ』

 アグネスタキオンは無言で、ただその手帳を強く握り締めた。

『[1/21]――左手の小指が全く動かなくなった。少し不便ではあるが仕方あるまい。彼女に正直に伝えたら、「治療の為の研究が優先だ」などと言い始めて、本命の研究に支障が出る可能性がある。指先に若干の痺れが…程度に話すのが良さそうだ』

『[2/15]――味覚が消えた。まぁタキオンの薬は大抵酷い味だし、メリットといえばメリットか』

『[2/24]――頭痛が酷い。文字を書くのも辛いので、今日はここまでにする』

『[4/10]――右目が見えなくなった。片目でも生活に支障は無いが、彼女にバレないかだけが心配だ』

『[4/26]――正直、メンタルに影響を与える薬が一番辛い。必死に耐えてる理由を見失いそうになる。……絶対に忘れるな、全ては【アグネスタキオンの為に】』

 なんだこれは、なんなんだこれは。
 巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るなと、アグネスタキオンは顔をグチャグチャに歪めて頭を掻き毟る。何一つとして気づけなかった己を殺したくなった。

「私は、今まで何をしてきたんだ?……こんなの、始まりから間違えてるじゃないか」

 薬などより遥かに大切な、唯一寄り添ってくれた人間を、傷つけ壊し続けていたなんて、そんな実験に何の価値がある。何が好きでこんな欠陥だらけの脚の為に、トレーナーを犠牲にせねばならないというのか。

「くっ、はは。ははっ。……あぁもういい、諦めよう。一人になっても進み続けられるほど、私の脚は強くない」

 そうして、アグネスタキオンの心は折れた。気力を失った彼女に、研究を続ける理由など何処にも無かった。

「……私の実験は成功したよ」

 現実逃避。

「……この薬のはきっと、ウマ娘にしか馴染まないんだ。ヒトであるトレーナー君には、効果が強すぎたんだ」

 そういうことにした。そうだと思い込んだ。
 でなければ、トレーナーの死が無意味なモノになってしまうから。

「だから、私が飲んで証明しよう。これが”完成品”なのだと」

 机の上には、青色のカプセルが一つ。
 その薬の名はまだ決めていない。

「……まぁ。名前なんてどうでもいいか」

 そしてアグネスタキオンは、躊躇無くカプセルを口に放り込む。噛み砕くと同時、中に詰めた粉が口中に広がった。

「……っ」

 すると手足に膨大な熱が篭もり、身体の芯が凍えるように寒くなる。脚力向上の効果については間違いなさそうだが、しかし平衡感覚がおぼつかず、歩くことすらままならなくなった。

「……これは、酷いな。効果はともかく……コーヒーみたいな、味がする」

 アグネスタキオンは静かに倒れ込むと、そのままトレーナーの死体を抱き締めた。強く強く抱き締めた。
 
「……ふん。まさか君が死んでから『トレーナー君のことが好きだった』、なんて非生産的な感情に気が付くとはね。……くだらないけれど、悪くない気分だ」

 僅かに口角を上げ、トレーナーの胸元に顔を埋める。甘えるように額を擦り付け、止まった鼓動に耳を澄ませた。


 そうして、彼女はゆっくりと目を閉じ――――


「――――ン?……、…き?もう………そろそろ…………アグネス…………」

 名前を呼ばれたような気がした。
 意識の隙間から光が射すような感覚。空から聞こえてくる暖かい声は、徐々に鮮明になっていった。

「ねぇ、もう起きた方がいいよアグネスタキオン。体内時計が狂っちゃうから」

 そしてそれはトレーナーの声で、

「トレーナー君!?」

「っ!?……な、なに?急にどうしたの?」

 確かに生きて、喋っていた。
 
「え?…………え、え?」

「落ち着いてよ。……ほらね、やっぱり止めとくべきだった。『全然寝れないから私特製の睡眠薬を飲んで寝てやる!』だなんて。……紅茶飲む?」

「睡眠、薬?」

 あぁそうだ、とアグネスタキオンの頭はゆっくりと回り始める。そして何が起きたのかを理解し始めた。

 昨晩。
 眠りたいのに眠れなくて、これはもう仕方ないと「悪夢を代償とする超強力な睡眠薬」を口にしたのだ。その効果は正しく作用したようで、アグネスタキオンは即座に眠りに落ち……そして、絶望的な悪夢を見た。

「……?タキオン、もしかして泣いてる?」

「泣く?いやまさか。欠伸でもしたんだろうさ」

「そう。ならいいけど」

 トレーナーは立ち上がると、部屋に備え付けの小さな調理台へと向かう。恐らくは紅茶の用意をしてくれるのだろう、とアグネスタキオンは推測した。

 大きく息を吐くことで幾らか平静を取り戻したものの、しかし夢の記憶が視界に重なる。何事もなくこちらに背を向けるトレーナーが、不意に倒れるのではないかとつい考えてしまうのだ。

「……トレーナー、君」

 アグネスタキオンは、その呼び名を小さく呟く。

 夢は夢だが、それでも何もかもが虚無という訳でもない。ある程度は記憶に残るし、当然の如くトラウマにもなり得る。そして今回の夢は、アグネスタキオンの心に「恋心」を芽生えさせた。
 あまりにもリアルな夢であったが故に、「現実でもきっと同じ行動をしただろう」と思えた。薬を飲んで心中なんて、好きな相手でも無ければ思いつきもしない。

 アグネスタキオンは机の上に置かれた、件の睡眠薬に手を伸ばす。

「……この睡眠薬は捨てるべきだね。いくら悪夢とはいえ限度がある。あんなの悪夢なんて言葉じゃ到底足りないし、敢えて呼ぶなら――」

――心の底に眠る絶望、とか。

「くくっ、良いじゃないか。決めたよ、キミの名前は『絶望薬』だ。……もっとも、使う機会はもう無いだろうけどね」

 そのカプセルの名は絶望薬。今この瞬間に、そう決まった。

「……よっと」

 アグネスタキオンはゆっくりと立ち上がると、トレーナーの元へと歩いていく。トレーナーは水道から出る水の音のせいか、アグネスタキオンの接近に気づく様子はない。
 しかし好都合とばかりに、彼女はくすりと笑みを浮かべていた。

「――トレーナー君!!」

「わっ、なに?どうしたの?」

 驚かせるように、背後から抱きつく。
 トレーナーの持つ身体の熱に、アグネスタキオンは無意識のうちに安堵を覚えた。

「今度私とデートに行かないかい?プレゼントだって用意するよ」

「デート?……また何かの実験?」

「ふふっ、まぁそんなところさ。丁度クリスマスも近いし、付き合ってくれるね?」

「え、クリスマスって……有馬記念の前の日に行くの?流石にそれは」

「おいおいトレーナー君、私のモチベーション調整も君の仕事だろう?レースの前日くらい楽しませておくれよ」

「あー……もうしょうがないなぁ。でもちゃんと勝ってよね」

「任せてくれたまえ。君の期待は裏切らない」

 話せているだけで幸せだった。ただ生きてくれて、普通に会話出来ることが、こんなにも幸福に思えるだなんて。
 アグネスタキオンはトレーナーの肩に頭を乗せ、温かさを感じるように目を閉じた。
 
「……では明日のクリスマス、楽しみにしているよ」

 それは、何気なく口にした一言。
 約束を言葉に変えただけのこと。

 だから、この幸せは幸せのままにと祈って、そして。




「あれ?クリスマスって明後日じゃなかった?」

 そのトレーナーの返事に、頬を強ばらせた。
 部屋の時計は間違いなく、12月24日を示している。

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