『壊れた親友をマンハッタンカフェが救い出すまでの話』(ウマ娘)

 それは菊花賞の最中のこと。

 私の前を走るアグネスタキオンが、突如壊れた玩具のように膝から崩れ落ちた。あまりにも唐突で、何が起きたのかを理解できなかった。
 その悲惨な転倒はレースの熱気を一瞬で奪い取り、観客全てを凍り付かせる。勢いよく芝を転がるアグネスタキオンを見て、私は何故か試験管が砕け散る瞬間を幻視した。

 彼女の身に何が起きたのかは今でも分からないし、何が原因だったのかも分からない。

――ただ間違いなく言えるのは、アグネスタキオンはもう二度と走れないということである。


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「やぁカフェ、随分と調子が良さそうじゃないか」

 ふとアグネスタキオンの声がして、私は顔を持ち上げる。するとゴールの横に立つ、アグネスタキオンを見つけることが出来た。彼女は松葉杖をつきながら、穏やかに微笑んでいる。
 その姿を見た私は、頬の汗を拭いつつゆっくりとアグネスタキオンの方へと近づいていった。

「……また、来たんですか。私に何か用事でも?」

「いいや。君の走りを見たくて寄っただけさ。……退屈なんだよ、自分の脚で走れなくなってからは」

「……そうですか」

 私はつま先で、軽く芝を蹴る。
 一人で走るのを好む私としては、あまり練習の姿を見られたくはない――が、とはいえ今のアグネスタキオンに「来るな」と告げるのも気が引けた。

「……私の走りなんて、見ていて楽しいですか?」

「どうだろうね。……楽しいかと聞かれると返事に困るが、少なくとも気は紛れるよ」

「……」

 そして、僅かな静寂。

 気が紛れるとはつまり、紛らわしたい感情があるという意味である。飄々とした態度を崩さないアグネスタキオンであっても、やはり今の状況は堪えているらしい。
 あの菊花賞での事故からはまだ二週間。心の整理を終えるには、些か時間が足りないのかもしれなかった。

「……まぁ、好きにしてください。トレーニングの邪魔をしないのであれば、ご自由に」

 私はその一言だけを残して、アグネスタキオンに背を向ける。早く練習に戻りたいのは勿論だが、それ以上に彼女と顔を合わせ続けるのが辛かった。

 そうして、小一時間が経過した頃。
 一通りの練習メニューを終えた私は、息を落ち着かせながら立ち止まる。見れば周囲は赤く染まり、日が暮れるまでもそう遠くはなかった。

「タキオンさんは……、もう帰りましたか」

 そして先まで彼女が立っていた位置に目をやると、その姿は既に消えていた。恐らくは満足して実験室に戻ったのだろう。
 人気の消えた周囲を見て、私も寮に戻ろうと思う……がしかし、地面に落ちている何かが、夕日の光を跳ね返すのが目に止まる。

「……?」

 歩み寄ってみると、そこには一本の万年筆が転がっていた。

「これは……あの人の落し物?」

 むしろそれ以外には考えられない。

 手に取ると、かなり使い込まれていることが分かる。一体どれほどの時間握り締め、どれほどの文字数を書き込めばここまで擦り切れるのか。
 その万年筆は、彼女が積み上げた『研究』そのもののようにすら思えた。

「……持っていってあげますか」
 
 流石に放置していい代物ではないな、と。
 私は寮へ帰る前に、アグネスタキオンの実験室へと向かうことに決めるのだった。


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 実験室に着いた私はその扉をノックする。が、返事がない。普段の彼女であればこの部屋の中で唸っているはずの時間帯にも関わらず、中からは一切の物音が聞こえてこなかった。
 私は静かに扉を開けて、部屋の中を覗いてみる。するとそこは電気すらも付いていない、案の定の無人だった。

「まぁ。……机の上に置いておけば、十分でしょう」

 軽く覚悟を決め、そっと中へと入り込む。悪いことをしている訳ではないのに、それでもつい足音を隠してしまうのは私の性格ゆえか。

 そうして机の前へと辿り着き、コツンと万年筆を置いた私は――

「……?」

――ふとその上に置かれた、一冊のノートに気を取られた。

 特に変わったノートでは無いが、しかし私の持ってきた万年筆とやけにデザインが馴染んでいる。私は吸い込まれるように、そのノートに手を伸ばした。

「プランAと……、プランB?」

 書き込まれていたのは、私にとって聞き覚えのないワード。そのプランとやらが何を示しているのかは検討もつかないが、しかし読み進めるとアグネスタキオンの身に起きた出来事が段々とクリアになっていく。

――彼女の脚は元々脆かったこと。
――彼女は常に故障の恐怖に抗っていたこと。
――プランAとは、脆い自身の脚を鍛え上げる作戦であること。

 そして。

「……?……私に、任せる?」

――プランBとは。アグネスタキオンの脚を犠牲にデータを集め、私を『ウマ娘の限界に至らせる』作戦であることを知った。

 書き殴られたその乱れた文字を見ていると、余程の葛藤があったのだろうと想像がついた。

『……そろそろ決めなくては、どちらも間に合わなくなる。プランAか、プランBか』
『現実的に考えろ。私の脚では無理に決まっている。……こんな棒切れみたいに脆い脚が、最後まで持つはずがないだろう』
『カフェの走りが以前よりも良くなっていた。……やはり彼女に任せるのが正しいのかもしれない』
『月桂杯。これはチャンスだ。プランBを最高のモノにする、過去一番のチャンス。……諦めろ。ここが最後の分岐点だ』

 日記、だろうか。薄暗い感情が伝わってくる。

 しかし数日分の間が空くと、唐突に明るい文面へと変わった。恐らくは、彼女のトレーナーとの間で何かがあったのだろう。

『……ふふっ、何が「君と一緒に、限界の先に行くためなら」だ。私の気も知らないで、モルモット君は本当に生意気なことを言う』
『だが、そうだ。トレーナー君の言う通り、諦めるにはまだ早い!可能性がゼロで無いのなら、諦める理由にはなり得ない!!』
『良いだろう、プランAに決めようじゃないか。私はこの脚でウマ娘の限界に辿り着いてみせる。他の誰のものでもない、この脚で!!』

 それは跳ねるような文字で、楽しげに見えた。思わず私まで微笑みそうになるが、しかし。

 ……私はその結末を知っている。

『――壊れた。全部。終わった』

 そのページには、小さな水滴が落ちた跡があった。あのアグネスタキオンが、泣いたのだ。

 手が震えた。
 上手くページを捲れない。

『……こんなことなら、希望など持つべきじゃなかった。さっさと諦めて、現実を見るべきだったんだ』

 だがそれでも私は魅入るように、続く彼女の後悔の言葉を読もうとして、

「……カフェ?何をしている」

――突然に灯った部屋の光に、慌てて顔を上げる。

 いつの間にか扉の方に、アグネスタキオンが立っていた。彼女はほんの少し驚いた表情を浮かべるが、すぐに状況を理解したようで、苦虫を噛み潰したように目を細める。

「……。読んだのかい?それを」

「……はい」

 冷静になって罪悪感が生まれた。勝手に人の部屋に入り、勝手に人のノートを覗くなど非常識にも程がある。
 悪いのは私だ。おかしいのも私だ。

 そんなことは分かっているが、それでも彼女に問わねばならないことがあった。私の瞳には熱が篭もる。

「……聞かせて、ください。アナタは……アナタは、自分の脚で夢を追ったことを、後悔しているのですか?」

「……カフェ?」

 プランBではなくプランAを選んだことを、間違いだったと後悔しているのかどうか。結果何も残らなかったとして、それが誤りだったと考えているのか否かを知りたかった。

「答えてください。……アナタは後悔しているのですか?」

 ほんの少し、間が空いて。
 アグネスタキオンは口を開く。

「……しているよ。私は選択を間違え、才能をドブに捨てた。無駄な夢など持たないで、初めから君に全てを捧げるべきだったんだ」

「……っ」

 ダメだ。その結論だけは許せなかった。
 私は拳を握り締めながら、呻くように呟く。

「……アナタは、間違えてなどいません」

 最後まで諦めずに戦い続けたその選択が誤りだなんて、アグネスタキオンに言わせる訳にはいかない。

「アナタの決意は正しかった」

「いいや、私は間違えた。見るべきではない夢を見た」

「アナタの執念を尊敬します」

「私は何も残していない。尊敬される謂れもない」

「アナタはその選択を誇るべきです」

「……この結末の何を誇れと言うんだい?」

 そんな言い合いをして気がついた。私と目の前に立つのは、以前までのアグネスタキオンとは全くの別人なのだと。彼女は心が折れて、ただ後悔だけを繰り返しているのだ。
 だからこそ、どれだけ熱意を篭めても伝わらない。私の中で燃えるこの感情は、言葉だけでは決して伝わらなかった。

「……ではもしプランBとやらを選んだとして、アナタは私に何を残したのですか?」

「データだ。君がよりウマ娘の限界に近付くために必要な、あらゆるデータを用意できた」

 アグネスタキオンは強く答えるが、私はそれに被せるように言い返す。

「なら。……それが無ければ、私ではウマ娘の限界に届かないとでも言いたいのですか?」

「……それ、は」

 言葉ではアグネスタキオンを救えない。
 彼女はその研究に人生を懸けていたからこそ、一生を苛まれるほどの後悔を心に刻み込んだのだ。

 であれば、彼女を救うために私に残された手段は一つ。

「要りません、データなんて。……そんなものが無くとも、私はアナタの夢見た『ウマ娘の限界』に辿り着きます」

 否定出来ない事実として、「プランBを選ぶ意味など初めから無かった」と突きつければ、アグネスタキオンに残るのは「諦めなかった覚悟」だけ。後悔する理由など何処にも無くなる。

「…………カ、フェ?」

 驚いたように目を見開くアグネスタキオンを無視して、私は部屋を飛び出した。向かう先はレース場。

 もう少しだけ、トレーニングを続けよう。
 勝たねばならない理由が出来た。彼女の後悔を断ち切る為に、私は『あの子』を越えねばならない。
 
 もっと、もっともっともっと速く。
 それがアグネスタキオンを救う為の、唯一の方法だから。
////////////


 ……と。ここまではただの回想であり、エピローグ。マンハッタンカフェが、『超光速』と謳われるまでの冒頭である。

 レースを駆けるマンハッタンカフェは、観客席に立つアグネスタキオンにチラリと目を向け、心の中で呼びかけた。

――アグネスタキオン。……私にはアナタが、『あの子』と重なって見える。

 マンハッタンカフェの前には、彼女だけに見える『お友だち』が駆けていた。それは未だ一度として勝てたことの無い相手である。

 そして二人が重なった理由。
 それは『あの子』もまたアグネスタキオンと同じように、『可能性の限界』を見続けていたからではないか、とマンハッタンカフェは思う。

――だからこそ『あの子』は、いつも私には超えられない壁の先に居ました。

 つまりは常に私の理想を体現し、ウマ娘の限界に並ぶのが『あの子』なのだ。

――ならば、ならば。

 成すべきことはただ一つ。

「私が『あの子』を越えたとき、私はアナタの夢見たウマ娘の限界に至るのでしょう……ッ!!」

 似合わぬ闘志を胸に滾らせ。
 不実在の最強に、死に物狂いで手を伸ばす。



 アグネスタキオンの夢を叶えるまで、残り3ハロン。
 

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