『トレーナーの為に自分の脚をぶち壊すアグネスタキオンの話』(ウマ娘)

 全力で駆けるウマ娘の速度は時速七十kmに至る。それは公道を走る車よりも遥かに速く、そして衝突した際のダメージに関して言えば車以上だと言えた。
 なにせ車とは違いウマ娘という人型の高速物には、ぶつかることを考慮したセーフティが存在しないのだ。故に辿る悲劇は全身骨折、或いは即死。それがこの世界の常識だった。
 だからこそ道路にはウマ娘専用の走行レーンが用意され、また「走るウマ娘の前には決して立つな」という注意喚起が、幼い子供にすら徹底される。

「どうしてこんな無茶をしたトレーナー君ッ!?」

 にも関わらず、その警告を無視した愚かな人間がここに一人。その人物はアグネスタキオンの腕に抱えられながら、頭部から激しく血を流していた。
 それは不運と幸運が重なった結果である。
 トレーナーがアグネスタキオンを庇わなければ、アグネスタキオンは今この瞬間に死んでいた。しかし庇ったからこそ、トレーナーは生死の境を彷徨うことになった。
 遠くには医療者たちの走ってくる姿が見える。事故の瞬間を目撃した他のウマ娘たちが、即座に助けを呼んだのだと分かった。

「私のせいで……っ、私のせいだ……ッ!」

 模擬レースのゴール直前、アグネスタキオンはコンマ一秒の間、意識を失った。恐らくは昨晩に飲んだ新薬による、想定外の副作用だとアグネスタキオンは推測するが、その答えは定かではない。

 ともかくそのコンマ一秒のせいで、アグネスタキオンは最高速のままに転倒しかけ、そしてそれを受け止めたトレーナーは意識を失った。
 ウマ娘にとっての転倒は、高速道路を走る車両から飛び降りるに等しい危険な事故である。トレーナーはそれを知っていたからこそ、自身の危険も厭わずに、目の前で気を失ったアグネスタキオンを反射的に受け止めたのだ。

「だからって、君が死んだら元も子もないだろう……ッ」

 大した怪我もなく生還してしまったアグネスタキオンは、歯軋りをしながら呼びかける。トレーナーの細い身体をクッションにした感触が、未だに肌に残っていた。
 愕然とするアグネスタキオンを横に、トレーナーは担架で運ばれて行く。

 そして翌日。病院にて。
 アグネスタキオンは一人で医者と向かい合っていた。

「脳の損傷が深刻なレベルに至っていました。植物状態、と言って伝わりますでしょうか。……正直なところ、自然回復は難しいと言わざるを得ません」

 医師を問い詰めたりと、かなりの時間をこの診療室で費やしたが……端的に言ってしまえば「二度と意識は戻らない」のだという。
 アグネスタキオンは、額を押さえながら床を見る。取り返しのつかない事故を起こしたのだと理解した。

「……何か、方法は?」

 アグネスタキオンが気にかかったのは、医師の「自然回復”は”難しい」というやや違和感のある言い回し。何かしら治療法自体はあるのではと考えた。

「あるにはありますが、あまり現実的ではないでしょう」

「聞かせてくれ」

 頭を抱え俯いたまま、瞳だけを医師の方へと持ち上げる。

「……ウマ娘との衝突事故が世界的に多く、今回のような症状に至る患者が非常に多いために、徐々に確立されつつある治療法が一つ存在します」

「……」

「ですが、実行可能な医療チームがあまりにも少な過ぎる。需要と供給のバランスが取れないせいで、その治療費は尋常ではない額になります。時期によって変わりますが、数千万単位とお考えください」

「……数、千万」

 今すぐに用意出来る数字ではない、とアグネスタキオンは判断する。
 しかし、逆に言えば金さえ集めれば治療は可能ということだ。レースによる賞金は微々たるものだが、それに付随するファンからの募金や、その知名度を利用して広告塔の仕事を回れば不可能ではなかった。
 また研究の方向をシフトして、それを売るという手段もある。アグネスタキオンは必死に脳内で数字を弾く。そして出た答えは、

「……一年。一年あれば、私なら――」
「二ヶ月です」

 医師の言葉に、掻き消される。
 二ヶ月とは何の話だ、とアグネスタキオンは冷や汗を垂らした。

「……手術をして回復する可能性があるのは、事故発生から約二ヶ月までだと言われています。それ以降の手術は、ただ奇跡を待つのと変わりません」

「……は?」

 二ヶ月。たったの二ヶ月で、その金額を集めろと言うのか。

「無理に、決まってるだろう……」

「……。ですから、現実的ではないと」

 泣きそうになるのを必死に堪えた。それでも瞳が潤むのは隠しきれなかった。
 絶望を叩き付けるような事実を前にしながらも、トレーナーを助ける方法は無いかと考える。諦めるつもりはない。諦める権利はないと、そう自分に言い聞かせた。

 アグネスタキオンは瞳を苛烈に染めたまま、一人寮へと帰っていった。


///////////////////


 疲労に濡れた身体で、どうにか部屋に戻る。ゴチャゴチャに散らかる脳内があまりにも苦痛で、とにかく一度眠りたかった。フラフラとした足取りで、アグネスタキオンは歩いていく。
 しかし部屋の扉を開けた途端、パサリと何かの落ちる音が聞こえ、意識が現実へと引き戻される。首を傾げながら音の先を見ると、一通の封筒が届いていることに気づいた。

「これは……?」

 表面には大きく印字された『月桂杯への招待状』の文字。聞いたことはない名前だが、何かしらのレースだとアグネスタキオンは理解した。
 しかし、

「……悪いが、そんなことに気を取られている余裕はない」

 レースよりも、まずはトレーナーだ。新規のレースに関わっている暇などはなかった。
 部屋に入ると奥の方から光が見え、同時に機械を通した人の声が聞こえてくる。どうやらテレビが付けっぱなしになっていたらしい。

「……またテレビを消し忘れて部屋を出たのか、デジタル君」

 部屋の電気は消えており、中には誰もいない。ただテレビの光だけが、部屋を明るく照らしていた。すぐに眠るつもりだったアグネスタキオンは、部屋の電気もつけずに中へと進む。
 そして鬱陶しく喚くテレビも、すぐに消そうと考えていたのだが、

『――て行うエキビションレース、「月桂杯」』

 突如聞こえてきた「月桂杯」という単語。
 不意に電源に触れる指を止めた。

「……さっきの、封筒に書かれていたレースの話か」

 アグネスタキオンは赤く腫れた瞳を擦り、暗闇の中、テレビに向けて目を細める。

『ライブやセレモニーも予定されており、その規模の大きさに注目が集まっています――』

「これは……会長?」

 画面に映るのは、トレセン学園生徒会長――シンボリルドルフ。これはまた奇怪なことをするものだと、アグネスタキオンは鼻で笑った。

 曰く、G1を超える規模のレースを。
 曰く、各世代の代表を集めて。

 ぼんやりとシンボリルドルフの話を聞きながら、テレビの前に立ち尽くす。興味深く感じつつも、やはり思考の半分以上をトレーナーへの不安が締めているせいか、イマイチ話が入ってこなかった。
 そしてアグネスタキオンは、「今の私には関係の無い話だ」と呟き、テレビを消そうとする――が、そのとき。

「……いや待て。もし私が、このレースで勝利したらどうなる?」

 思いついた。トレーナーを救う方法を。
 参加するウマ娘は確定していないらしいが、しかし現時点で「シンボリルドルフ」「トウカイテイオー」の二人の参加は間違いないという。
 であれば、他に集まる面子も各世代のトップだと考えるべきだ。

「……私にも招待が来るのであれば、」

 少なくとも、「ミホノブルボン」「スペシャルウィーク」「メジロマックイーン」辺りには同じ封筒が届いていると予想出来る。即ち「月桂杯」での一着は、現存する全てのウマ娘の中の最速を示すと言っても過言ではなかった。
 
「このレースで勝てれば、私にも相当なファンがつくだろう。……そして今のトレーナーの状況を記者たちに話せば、もしかしたら」

 間に合うのではないか?
 二ヶ月という短い期間で、必要な金額を集められるのではないか?

「……。開催は、一ヶ月後」

 アグネスタキオンは僅かな光明を見る。勝てる見込みは薄くとも、微かな可能性が転がり込んできたと、強く拳を握り締めた。
 そして同時に、破滅的な笑みを浮かべる。

「プランAかBかなど、悩む必要も無くなってしまったね」

 プランA――それは致命的に壊れやすい己の脚をどうにか補強し、自らがウマ娘の限界に挑む計画である。

「……月桂杯までの補強は決して間に合わない。私の脚は、間違いなくそのレースで限界を迎える」

 プランB――それは己の脚を壊す前提で酷使しデータを集め、他者の脚をウマ娘の限界に届かせる計画である。

「……絶対に勝たねばならないレースの最中に、データを集める余裕などある訳がないだろう。プランBもお終いだ」

 アグネスタキオンは、小さく息を吐きながらベッドに腰掛ける。過去を思い出すように、ゆっくりと目を閉じた。

「『ウマ娘の脚に眠る可能性の果ては!この肉体で到達し得る限界速度は!いまだ影すら見えぬ程、遥か彼方なのだから!』……だったかな。いやはや、何とも懐かしい」

 それはかつて、トレーナーと出会ったばかりの頃に口にしたセリフ。虚勢でもなんでもなく、本気で果てを目指してきた。
 小さな頃からの夢だった。
 その為だけに、何年も努力を積み重ねてきた。

「……全部、無駄になってしまうねぇ」

 人生を懸けて追い求めた夢が、両脚と共に砕け散る瞬間はどんな気分なのだろう。らしくも無く泣いてしまうのか――或いは、引き攣った笑みでも浮かべるのか。
 
「あぁ嫌だ。そんな目に遭うのは、いくら私でも本当に嫌だ」

 だが、でも、それでも……と。
 アグネスタキオンの瞳には、蒼色の炎が宿る。

「……愛しのモルモット君の為なら、仕方ない」

 猛禽類の如く口角を持ち上げ獰猛に笑い、そして。


「――全員まとめて絶望させてやろうじゃないか。故障を度外視した私は、皇帝よりも遥かに速い」


 見る者の目を眩ませる『超光速の粒子』は、僅か一度のレースで神話になる。


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 アグネスタキオンはまず、レースまでのスケジュールを分刻みで書き出すことにした。成功の目処が立っている研究以外は全て切り捨て、「月桂杯」の為だけに全てを注ぐ。
 スケジュール構成の基準は「一ヶ月後の己の強化に繋がるかどうか」で、レース後のことは一切考えない。寿命を縮める危険や後遺症を残すような代償も、全て受け入れると即座に決めた。

「……月桂杯は芝2500m」

 この脚で思い切りスパート出来る距離は600mだ、とアグネスタキオンは予想する。長く共に過ごした己の脚だからこそ、壊れるラインも明確に見えた。

「体力は持つだろうが……しかしあの天才たちを相手に、残り600mまで壊れずに付いていけるか」

 顎に手を当て、ふむと悩む。もう少し短い距離ならば多少の無茶も可能だったが、長距離ではそうもいかない。早くも不利な条件を突きつけらてしまったなと、小さく息を吐いた。
 なんにせよ戦略としては、「差し」が正解だろう。「逃げ」や「先行」でレースの前半に脚にダメージを与えるのは、今のアグネスタキオンのコンディションから考えれば、明らかに愚策だと言えた。

「あぁ、本当に嫌になるな。もしかしてガラス細工か何かなのか、この脚は」

 鉄のように、打てば頑丈になるならトレーニングも多少は楽しかろうが、しかし打つだけで壊れる脆さとなれば話は別だ。
 慎重に慎重に補強を重ね、それでも尚、何かの拍子に容易く壊れかねないなんて、いっそ下らない努力だとすら感じる。

「……まぁいいさ。今さら言って変わる現実でもない」

 そう言うと、アグネスタキオンは嘲るように笑いながら、自身の脚を優しく撫でた。

「……それに私がこれから行うのは、『無駄なく脚を壊す準備』に他ならないのだから」

 覚悟を決めてもやはり、その表情には悲愴が混じる。

 そして一日も無駄にすることなく準備を進め、ついに迎えた月桂杯の当日。アグネスタキオンは雲一つない青空を、ターフの上で眺めていた。

「ふむ。晴天、微風、良バ。……それに体調も悪くない。どうやら運は私に味方してくれたようだね」

 多くのファンを獲得したいと考えるアグネスタキオンにとって、観客入りは重要なファクターの一つである。環境が良ければ良いほどにレースは盛り上がる、と彼女は観客席を一瞥した。
 緩やかな風に髪を揺らしながら、静かに目を閉じてトレーナーの姿を思い出す。あの事故からまだひと月しか経ってはいないが、それでも病院着で眠る格好のトレーナーが、アグネスタキオンの中で馴染んでいた。

 何のために走るのか。
 何のために夢を捨てるのか。

 幾度となく繰り返したその問いかけに、アグネスタキオンは胸に手を当てる。

「……あぁ、やはり。一抹の未練も無い」

 心置き無く地面を蹴り抜けそうだ、と小さな呟きと共に安堵を洩らした。
 そうして一人穏やかに息を吐くアグネスタキオンだが、ふとその背後で、誰かの立ち止まる音が聞こえてくる。ゆっくりと目を開けて振り向くと、そこにはマンハッタンカフェが立っていた。

「やぁカフェ、私に何か用かな?悪いが今は実験相手の募集はしていないよ」

「……始めから、そんなつもりはありません。……ただアナタの様子がおかしかったから、なんとなく」

 アグネスタキオンはマンハッタンカフェの言葉に、ほんの少しだけ目を細める。いつも通りに振舞っているつもりだったが、しかし彼女の目は誤魔化せなかったらしい。

「私の様子がおかしい?……ははっ、なんだい。もしかして私の身を案じてくれたのかな?だが生憎だけれど、今日の私はいつにも増して絶好調さ。つまり君の不安は杞憂と言わざるを得ない」

「そう、ですか。……いえ、別にアナタの心配などはしていませんが」

「ふぅン。君は相変わらずだねぇ」

 マンハッタンカフェは色の薄い瞳のままに、ただ大人しくアグネスタキオンを見つめる。何故か心を見透かされているような感覚になり、アグネスタキオンは無意識に唾を飲んだ。
 二人は無言で見つめ合い、その周囲には静寂が満ちる。

「……私。最近のアナタの走りを見て、少し思っていました。『あの子に似ているな』と」

「あの子?……あぁ、君のイマジナリーフレンドのことか」

 随分と突飛なことを言う、とアグネスタキオンは首を傾げた。褒め言葉なのか、或いは貶されているのかと判断に迷う。

「……ですが、それはただの気のせいだったみたいです」

「?」

「久しぶりにアナタと顔を合わせて、ハッキリと分かりました。……今のアナタは、あの子とは程遠い」

 その言葉には、あからさまな軽蔑が篭められた。
 唐突に向けられた濃密な悪感情に、アグネスタキオンは目を見開き、僅かに後退る。

「アナタが何を考えているのかなんて知りませんし、興味もありませんが。……正直、今のアナタはかなり気味の悪い瞳をしていますよ。レースを馬鹿にしているような、とても癪に障る目付きです」

「……」

 彼女に本気で嫌悪されたのは、初めての経験かもしれない。来るな寄るなと避けられはしても、それでも気の合う相手、くらいには思っていた。

 胸の奥がズキリと痛む。
 
「……そうかい。それはきっと、私の目指す先が変わったからだろうね。すまないが、君に何を言われても私は元に戻ることは出来ない」

 レースでの勝利が、目的ではなく手段になったことを見抜かれたのだろう、とアグネスタキオンは推測した。
 頬が強ばるのを感じるが、どうにか平静を装って、いつものように怪しげな笑みを浮かべる。トレーナーを救うために走る、なんてマンハッタンカフェに悟られるのは嫌だった。

「そうですか。……まぁ、どうでもいいですけれど」

 マンハッタンカフェは吐き捨てるように返事をし、冷たい瞳のままに背を向ける。その瞬間、マンハッタンカフェと繋がっていた、何か大切なモノがプツリと切れたような感覚を覚えた。
 劇的な出来事が起きた訳ではなく、話しかけるなと言われた訳でもない。だがこの先、自分から彼女に話しかけるのは不可能だろうと理解した。一方的に友人だと思っていた、その黒服の背中から目が離せない。

 既に何もかもを投げ捨てたつもりだった。
 夢も脚も研究も、大切なものは全て捧げたつもりだった、が。

「……。これも、モルモット君のためだ」

 どうやら、それでもまだ足りなかったらしい。もともと存在したのかすら怪しい、欠片の「友情」すらも容易く失われた。
 
 曰く『極限まで削ぎ落とした体には鬼が宿る』と言うが――

「ははっ。……どうでもいい。何だっていいさ。……モルモット君を救えるのなら」

――文字通り全てを削ぎ落とした貴公子には、一体何が宿るのか。
 
『各ウマ娘は、出走準備に入ってください――』

 空からスピーカー越しの声が響く。レース開始の時間を迎えた合図だ。
 アグネスタキオンは小さく息を吐いたのち、冴えた五感を走らせながら静かにゲートの中へと入る。一切の雑念が無い現状、そのコンディションは完璧と呼んで差し支えなかった。
 与えられたゲートは八枠十六番。決して有利ではないが、しかし終盤での勝負を狙うアグネスタキオンにとって、囲まれにくいというメリットは大きい。

 ふと一つ右隣のゲートを見ると、今レース最大の敵となるだろうシンボリルドルフが立っていることに気づく。
 取り敢えずとばかりに、揶揄うように話しかけた。

「やぁ調子はどうだい、会長。君ほどに強大な敵ともなれば、少しくらい不調な方が私としては助かるのだが」

 しかしシンボリルドルフは一切の緊張すらしていないようで、余裕そうな微笑みを返してくる。

「ふふっ、すまないが私はとても好調だ。一体このレースをどれだけ待ちわびたことか。正直に言ってしまうと、ゲートが開くのは今か今かと脚が疼いて仕方がない」

「……だろうね。楽しそうで何よりだよ」

 ピョコピョコと楽しげに揺れるシンボリルドルフの尻尾を見ながら、アグネスタキオンは溜め息を吐いた。

 一番人気、シンボリルドルフ。
 十八番人気、アグネスタキオン。

 実力とは別に、単純な素行不良が大きな影響を及ぼしているのは間違いないが、やはり周りからの評価は露骨に分かれている。

「まさか最人気と最不人気が横に並ぶとは、観客もソワソワしているかもしれないねぇ。『あの問題児のことだ、皇帝の邪魔をするかもしれない』、とか」

「君にマークして貰えるのなら、それは光栄なことだと私は思う。是非ともあらゆる手段をもって、私に背中を見せて欲しい」

 それは威風堂々とした佇まい。
 どうやら彼女は、自分が負けるとは露とも思ってないらしい、とアグネスタキオンは目を細めた。だが何かを言い返そうとは思わない。なにせ観客のほとんどがシンボリルドルフの勝利を信じているのは、紛れもない事実だったから。

「……はっ」

 アグネスタキオンは小さく笑う。
 越えねばならぬ壁の高さを実感し、そして越えてやろうと決意を固めた。

 きっとこのレース場には、アグネスタキオンの勝利を期待する者は誰一人として居ないだろう。想像する者すら居ないはずだ。聞こえてくる声援はシンボリルドルフに向けられたものが多く、アグネスタキオンの名は全く聞こえてこなかった。

 敵は世界そのものだ。観客全てはシンボリルドルフの勝利を願い、唯一アグネスタキオン本人だけが己の勝利を強く願う。
 逆境。無謀。絶望的。勝利の二文字は遥か遠い。だが諦める選択肢など、思い浮かびすらしなかった。

 顔を上げる。白衣がなびく。
 瞳の内は苛烈なままに。

「……よく見ていろ、トレーナー君。君の選んだウマ娘は、誰よりも速く最強だったと証明してみせる」

 そして、鋭い眼光でゴールを睨み付けた。

 高らかにファンファーレが鳴り響く。
 歓声が一層騒がしくなり、さらに熱気が高まるのが伝わってきた。
 構える。脚に力を篭める。ゼロコンマ一秒でも早く飛び出すべく、限界まで神経を張り詰めた。

 そして。

「「「――――ッ!!!」」」

 ついにゲートが開け放たれた。
 日本屈指の優駿達が、我先にと芝を蹴る。

『各ウマ娘、一斉に飛び出しました!!』

 興奮の色を見せる実況の声を聞きながら、アグネスタキオンは駆け出した。様子見と言えるほど生易しいペースではないが、兎も角、落ち着いた展開でレースは開始される。
 先頭にはミホノブルボンとマルゼンスキー、サイレンススズカの三人。熾烈に好位置を奪い合う姿が見えるが、しかし差し狙いのアグネスタキオンには関係の無い話だった。
 十二位というやや後方にて、囲まれることのない好位置を確保する。

――会長は先行狙いか?

 アグネスタキオンは視界を広く保ち、レースの動きを把握しようと首を回す。それぞれが抜け出すだろうタイミングを予測するのは、一着を目指す上で必要な行為だった。
 脚と体力を温存したまま、アグネスタキオンは快調に進んでいく。

――やはり、全体的なペースは普段よりも速いな。

 全員が全員、一番人気を当然とするような世代のエース。一瞬でも気を抜けば置き去りにされる、とアグネスタキオンは息を呑んだ。
 レースは序盤からハイスピードで進む。

――だが、悪くない。このペースなら600mまでギリギリ持つ。

 残り1000mで全体のペースが上がり始め、600mからスパートが必要になる、とアグネスタキオンは予想した。

『先頭サイレンススズカ、1500を切りました!二番手ミホノブルボンとの差は僅か!まだまだ展開は読めません!』

 実況の声を聞き流し、アグネスタキオンは冷静に立ち回る。スタミナ消費を最小限に、無駄な横移動を出来る限り抑えた。
 そしてコーナーを周り序盤と呼べる距離を越え――ついに半ばを過ぎたとき。全ウマ娘の目の色が変わる。

『さぁ残り1000!徐々にペースが上がり始めます、ここからが勝負の分かれ目か!?』

 予想通りのレース展開。
 アグネスタキオンは思い描いた進路を辿るように、切り開かれた正面を見た。そこに邪魔者は一人もいない。

――勝てる!勝てるぞ……ッ!!

 僅かに口角を上げる。順調すぎる程に順調だった。
 一人、二人と追い抜いていく。段々と加速していく己の脚に、高揚すら覚えた。それほどまでに完璧なポジショニングだったのだ。

 ……だが、そのとき。

『シ、シンボリルドルフ、ここで抜け出した!残り800にしてあまりにも早すぎるスパート!!果たしてスタミナは持つのでしょうか!?』

「!?」

 アグネスタキオンの予測に、致命的な狂いが生じる。

 なんと自分よりも遥か前方にいたシンボリルドルフが、自分よりも遥かに早い段階でスパートを開始したのだ。前を見れば、つい先程まで先行位置を駆けていた筈のシンボリルドルフが、既に逃げ集団と並んでいることに気づく。

――くそっ、これ以上離されるのは不味い……ッ!

 如何に最高速度で勝ろうが、スパートの時間に差があれば追いつけない。子供でも分かる単純な理屈だ。

 ゴールまでの距離800m。
 脚が耐えられるのは600m。

「――ッ」

 歯を食いしばる。一瞬の葛藤。
 行くか、待つか。
 究極の二択を迫られた。

 シンボリルドルフが、スタミナ切れを起こして失速すると思うのなら待てばいい。600mまで我慢すれば、それだけで勝てる。

 しかし。

――あの、皇帝がッ!そんなミスをする筈がないだろうッ!

 その表情は苦悶に歪む。突き立てられた絶望の刃が、アグネスタキオンの瞳を曇らせた。

 決めろ。一秒で決めろ。
 お前は限界を超えられるのか?壊れた脚で地面を蹴れるのか?その痛みに、苦痛に、喘ぐことなく駆けられるのか?
                  
「ぐっ…」

 否、初めから分かっていた。選択肢など一つだと。

 覚悟を決めろ。
 背負っているものを思い出せ。

――勝負だ、シンボリルドルフ……ッ!!

 まず表情が変わる。
 目付きが、口元が、瞳の奥が。
 殺意と執念と本能の色に。
 奴を差し殺せと、猛々しく燃えた。

 次に膝が深く沈み、超前傾へと姿勢を変える。
 それは脚への負担を理由に、本番では一度も見せたことのない姿だった。両脚に尋常でない力を篭める。イメージは大地を抉り取る一歩。
 
 見据えるのは一着。遥か先を駆ける無敗の皇帝。

「……私は、決して負けられない」

 小さく呟き、そして。

「――ッ」

 その姿が霞んだ。
 
『シンボリルドルフ、凄まじい速度で先頭に躍り出――……え?』

 アグネスタキオンが、地面を踏み抜いた途端。
 レース場は空白に包まれる。

 実況席は言葉を失い、皇帝の走りに盛り上がっていた観客すらも、その閃光に目を奪われた。
 まるで制止していた物が、突然動き出したと錯覚するほどに、その急加速は驚異的だった。

 何百何千の視線はアグネスタキオンに集まり、テレビカメラすらも咄嗟にアグネスタキオンに向けられる。

 あぁ、とアグネスタキオンは不敵な笑みを浮かべる。

「……もっと」
 
――そのウマ娘は、僅か五度の戦いで神話になった。

「……もっとだ!」

――異次元から現れ、瞬く間に駆け抜けていった。

「もっと、もっと速くッ!!!」

――ライバル達を絶望させ、見る者の目を眩ませる、超光速の粒子。

「ウマ娘の限界はッ!こんな物じゃないッ!!」

 そのウマ娘の名は――


『――アグネスタキオンッ!!ここで抜け出したぁぁあ!!』

 音も光も置き去りにする。


///////////////////////


 残り800からのラストスパート。それは脚の耐久力は勿論、体力的にも危険な賭けだった。
 だがシンボリルドルフは、守りに入って勝てる相手でもない。行くしかなかった。

 躊躇なく地面を踏み抜く。両脚が喚く警告も無視して、ただ一心不乱に突き進んだ。
 列になって並ぶ天才たちを、激痛という代償を支払い、風と共に抜き去る。ミシミシと音を立てる骨は、どのタイミングで折れても不思議ではなかった。

『おい、あのメチャクチャ速いの誰だ!?』
『アグネスタキオンだよ!ほら――例の「音速の貴公子」!』

 ふと、歓声が自分に向けられていることに気づく。
 己がそれだけの走りを見せているのだと安堵し、そして同時に無理をして走っている事実を、観客に悟られていないことにも安堵した。

 何人もの疾駆を越えて、ついに見えてきたのはマンハッタンカフェの背中。その健脚を羨ましく思いながら、彼女との距離も狭めていった。

 そしていざ、マンハッタンカフェを追い抜かそうとしたとき。
 不意に彼女と目が合う。

「……あな、た」

 マンハッタンカフェの顔を染める感情は、純然たる驚きである。「アナタは一体何をしている」という、責め立てるような驚愕だった。

――まさか、気づかれたのか?この一瞬で。

 壊れるつもりで走っていると、刹那の交錯で見抜かれた。

「や、やめなさいッ!アグネ―――」

 しかしその悲痛な叫びは、アグネスタキオンに届く前に、その後方へと流れていった。
 心配してくれた彼女の優しさに、心の中で礼を言いつつ、だがそれでもアグネスタキオンは止まれなかった。

 加速、加速加速加速。
 大切なものを壊し続けるように、さらに限界を超えていく。勝てさえすればそれでいいと、形振り構わず歯を食いしばった。

『残り――200m!!アグネスタキオン、ついにシンボリルドルフの背後につきました!最終直線はこの二人の一騎打ち!!』

 そして、ついに終盤。
 ゴールが近い。だが脚の限界も近かった。
 
「……あ、ぐっ……っ」

 限界と考えていた600mを越え、脚が震え始めた。腿から下の感覚が消え始めた。
 勢いに乗せて走っているだけの現状、止まればもう二度と同じ速度では走れない、とアグネスタキオンは確信する。

 足裏の感触は感じられず、自分がどうやって走っているのかすら分からない。それでも身体に染み付いた動きが、どうにか前へ前へと推し進めた。

 痛い。脚はロクに言うことを聞かない癖に、ただ激痛だけを訴えかけてくる。
 苦しい。痛みのせいで呼吸が上手く出来ず、肺が無意味に暴れ回る。

 でも、それでも。

――まだ、越えろ……ッ!私の夢見たウマ娘の限界は、もっと先にある……ッ!!

 早く。

『アグネスタキオン、ゆっくりと距離を詰めて行く!その差はおよそ一馬身!差し切れるか!?』

 速く。

『残り100!間に合うかアグネスタキオンッ!!』

 もっと、疾く。

 終わりかけの脚を躊躇なく使い潰す。
 無呼吸のままに腕を振り上げる。

『どっちだ!?先にゴールに届くのはどっちだ!?』

 そして盛り上がりは最高潮へ。
 事ここに至れば、競い合うのは純粋な意志の強さだった。

 だが、最後の一歩。
 勝者を決める最後の一歩を、思い切り踏み込もうとした……瞬間。

「……っ」

 ピキリ、と下の方から音がした。
 骨の砕ける音だった。

 きっと、罅はずっと前から入っていた。似たような激痛が何ヶ所にもあった。でも走れはするからと、ただひたすらに無視を決め込んだ。

 しかし。

――限、界?

 アグネスタキオンの顔が、蒼白に彩られる。
 尋常でない痛みと、そして受け入れざるを得ない敗北の絶望が彼女を襲った。

――私は、負けるのか?

 あと一歩。最後の一歩が踏み出せない。
 ぐちゃぐちゃになって、既に脚と呼んでいいのかも分からない骨の塊が悲鳴を上げるのだ。

「ぐ、ぅ……」

 走馬灯のように脳裏を駆け抜けるのは、負けた後に向けられるだろう数多の言葉達。
 きっと褒められはするのだろう。「アグネスタキオンも頑張ったよね」「凄かったな、あのウマ娘」「見直したよ、アグネスタキオン」、と。

 だが続く言葉も目に浮かぶ。

――「でも、シンボリルドルフの方が凄かった」

 駄目だ。それでは駄目なのだ。トレーナーを救うには、そんな中途半端な賞賛では足りないのだ。

 勝つしかない。勝つ以外に方法などない。
 ハナ差で前を駆けるシンボリルドルフを、死に物狂いで追い抜くことだけが、アグネスタキオンに許された唯一のハッピーエンドに繋がる道だった。

「ぁ、あ”……っ!!」

 喉から僅かに声が洩れる、と同時。
 青ざめた双眸に、再び熱い火が灯る。

――私は!私はッ!!

 葛藤など無かった。
 壊れた脚でもう一歩。

――トレーナー君の、為ならばッ!!

 どんなに悲惨な結末だろうと受け入れようと。
 覚悟を決めてその先へ。

「が、あ”あ”あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”あ”!!!!!!」
 
 思いきり、吼えた。
 その一歩は彼女史上、最も深く芝を抉り取る。

 飛び込むようにゴール板を越えて、

『ッ!!ふ、二人同時にゴォォーーール!!!』

 そして。

 巨大過ぎる歓声が響き渡った。
 脚が痛む程の振動が伝わってくる。

 幾度も転がるその様は大事故以外の何物でもないが、しかしボロボロの身体のままに、アグネスタキオンの視線は着順掲示板へと向く。
 あまりにも必死だった彼女は、己が勝ったのか負けたのかすら分からなかったのだ。

『け、結果が出ました!……全ウマ娘の最強を決める、月桂杯の一着は――』

 興奮冷め止まぬ実況の声が聞こえてきた。

 不安と恐怖が入り混じる。
 どうか頼むと強く願った。

 だがシンボリルドルフが、悔しそうに空を眺めていることに気づき、何となく結果を察する。

 あぁそうか、私は。

『――――勝者は、アグネスタキオンッ!!!!』

 ……勝ったのか。


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 そして、月桂杯から数週間が過ぎた。
 一つのレースの話題など、そう長く持つものでもないが、しかし世間は未だに騒がしくアグネスタキオンの名を取り上げる。
 彼女のファンとなった人々の数は把握しきれないほどであり――ともかく、彼女の願いは果たされたのだ。


 白くて静かな部屋の中に、窓で切り取られた光が射し込む。

 ふと、一人の少女の声が響いた。
 物音一つ聞こえないその空間では、やけに澄んだ声に聞こえる。

「……おや?やっと目を覚ましたのかい、モルモット君」
 
 車椅子に座りながら、彼女は優しく微笑んでいた。
 穏やかに、緩やかに、暖かに、まるでその部屋だけは時の流れが止まっているかのように。


「――待ってたよ。さぁ、実験を再開しよう」

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