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(59)全てのこちら側の孤立

 今年(2024年)も旧ユーゴスラヴィア(以下、ユーゴ)地区の映画を大学キャンパスで上映するシネマ・(ポスト)ユーゴの季節となった。今回は東京大学文学部の「旧ソ連と東ヨーロッパの文学と映画」の授業の一環として、セルビアのミラ・トゥライリッチ監督の『すべての向こう側(Draga Strana Svega The Other Side of Everything)』(2017年、セルビア・フランス・カタール製作、英語字幕付き)を上映した。
 本監督の前作『シネマ・コミュニスト』(2012年)をシネマ・(ポスト)ユーゴでは、監督とのオンライン討論とともに2013年に上映している(本コラム(10)を参照)。コロナ以降Zoomがオンライン討論でもよく使われるようになったが、当時はSkypeでのオンライン討論であった。ユーゴの大統領だったチトーは大の映画好きで毎晩公邸の映写室で映画を見ていたと言われるが、この前作は彼の映写技師の話やベオグラード郊外の撮影所に残る衣装や大道具・小道具からユーゴ映画の歴史をたどり、その特殊な形態から戦後ユーゴの歴史を考察する作品であった。
 『全ての向こう側』は、トゥライリッチ監督の母スルビヤンカ・トゥライリッチ (1946-2022) のベオグラードのアパートから始まる。第二次世界大戦後の社会主義国政府により、住まいの半分を没収されて低収入の家族に与えられた後、向こう側に通じる扉は固く閉ざされて来た。ユーゴ解体後、ベオグラード大学電気工学部教授のスルビヤンカはスロボダン・ミロシェヴィッチ政権に反対する1990年代の民主化運動の中心人物となる。彼女のアパートのように深く分断されたセルビアで果敢な活動を続ける母の姿を、このドキュメンタリーが捉える。

向こう側への扉を見るミラ・トゥライリッチ監督の母や家族
(c) Dribbling Pictures

本作は登場人物が早口で多くを語るので、英語字幕を追うのに努力を要した。映画の構成は時系列が入り乱れ、出来事が起こった順番に並べられていないため、多くの情報量をこなすのが容易ではない。上映前に歴史学者の山崎信一さん(東京大学非常勤講師)が、ユーゴの主だった歴史、ユーゴ解体後のセルビアの動きを通じて、この地域がどのように「分断」されてきたのかを解説した。
 上映後に私がトゥライリッチ監督の最近の二部作について簡単に紹介した。『非同盟 ラブドヴィッチの映像からの光景(Non-Aligned: Scenes from the Labudović Reels) 』 (2022年)は、チトー大統領が第二次世界大戦後の東西冷戦の中、そのどちらにも属さず第三世界の国々と連帯して非同盟中立政策を進めた動向を記録した撮影監督ステヴァン・ラブドヴィッチの残した映像を基に、チトーの非同盟中立政策の意義を考察したものである。『シネ・ゲリラ ラブドヴィッチの映像からの光景 (Cine-Guerrilla: Scenes from the Labucović Reels』 (2022年)は、1950年代末から始まったアルジェリアの独立戦争に際し、チトーによって派遣されたラブドヴィッチが独立運動側に従軍して撮った映像を基に、世界各地で起こった植民地独立運動の意義を振り返るものである。1979年生まれのトゥライリッチ監督は、アーカイブ映像を多用して幼少時代を過ごしたユーゴにこだわる作品を作り続け、ユーゴというユニークな国についての映像表現を生み出している。
 また私は最近のセルビア映画2作を紹介した。『失われた国家(Lost Country)』(2023年)は、ミロシェヴィッチ政権の一員だった母を持つ15歳の少年を描くヴラディミール・ペリシッチ監督の自叙伝的劇映画(本コラム(57)を参照)で、『すべての向こう側』と対を成すような作品である。また『この女を見たか?(Dali stevideli ovu zenu?)』(2022年)は、冴えない中年女性がさまざまな次元や設定に脈絡なく侵入していく様を描く前衛的作品で(本コラム(53)を参照)、題材だけでなくスタイルも様々なセルビアの作品が国際的に上映されていることに言及した。

2004年春、ニューヨークの上映会で最近2作品を紹介するミラ・トゥライリッチ監督
(c) Kyoko Hirano

 上映後の監督とのオンライン討論で印象に残った話題を記す。母親を撮影する難しさについて質問した私に監督は、母親は教授だったので学生に話すようにカメラの前でも話してしまうし、テレビ番組でしばしばインタビューされていたことからインタビュー慣れもしていたので、それを越えて自然な会話を捉えることが挑戦であったそうだ。分断されたアパートの部屋と分断されたセルビアという国が象徴的に並行して描かれる構成については、最初は母の分断された2つのアパートについての映画を作る予定だったが、5年かかった撮影中に母に焦点が移ったと言う。自分たちの部屋の向こう側への扉を開くことがあることは想像できなかったが、向こう側の所有者ナダ・ラゼロヴィッチが亡くなり、ナダには相続人がいなかったことと、社会主義時代に没収された財産を取り戻す請求ができるように法律が変わったことが重なり、部屋の向こう側への扉を最後に開くことが出来た。
 ナダは教師だったので、スルビヤンカとナダはブルジョア知的階級と労働者階級という差ではなく、コミュニストかそうでないかという思想的違いで、母はコミュニストではなかったが、ユーゴという国の概念は信頼していたそうだ。
 窓から外を眺める場面が多いのは、カメラをこの部屋の中のみに設定して、この閉ざされた空間を閉ざされたセルビアという国に重ねているからである。また外ではデモ隊、警官の動きなど多くの活動が展開していることも描きたかった。
 本作を見た今のセルビアの若者の反応について、1990年代のことを知らない若者たちは自分の国に20年前何が起こっていたのかを知って驚くことが多かったという。
 社会で活躍するスルビヤンカの生き方に感銘を受けた観客が多いが、ユーゴに限らず社会主義国では女性の社会的地位が向上し、女性の社会的権利が認められ多くの女性が働くようになったので、自分の周囲の友人の母親は全員働いていたと監督は語る。しかしスルビヤンカのように政治運動に関わる母は少なかったそうだ。大学教授で運動家の母が外の姿で、家の中では子供を育て家事をする母である一面も描きたかったと監督。
 電気工学科という男性社会で スルビヤンカは女性で初めての教授だったが、優秀だったので職に応募したら大学も雇わないわけにはいかなかった。監督が15歳の時友人とデモに参加し、母にばったり会った。その時の母の姿を見て、尊敬するようになった。その母は煙草を四六時中吸うので声がしゃがれて低くなり、髪はショートカットで男性と間違えられることもあった。
 質疑応答を聞いた後、改めて思ったことが多々ある。スルビヤンカの祖父はユーゴスラヴィア王国の建国に関わった閣僚で、イギリス大使館の向かいの高級住宅地にスルビアンカの住むアパートを建てた。そのような名門に生まれ、父も母も親戚も弁護士だったので、自分も弁護士になりたかったが、社会主義国で弁護士は自分の主義主張を貫けないからと父が反対して科学者になったとスルビヤンカは語る。
 高校生の時にモスクワでの国際数学オリンピックに参加して、その時のユーゴからの参加者たちと50年間親交があった。彼らが時々スルビヤンカの家で集まり、政治や時事問題に関して侃侃諤諤の討論をしている場面が映画の所々に挟まれるが、ユーゴ、そしてセルビアの知的階級の人々の姿で興味深い。
 スルビヤンカが家に代々伝わる銀器を真剣な眼差しで磨いたり、大事な食事会の時に特別の食器を出してテーブル・セッテイングをしたり、洗濯したレースのアイロン掛けを丁寧にする場面では、彼女のブルジョアの生活の伝統を垣間見せる。そうした伝統を彼女が守っているのも、両親や祖先に対する尊敬の念があるからであろう。テレビ局のインタビュー要請が留守番電話から流れて来る時、ベッドで本を読む彼女が何を読んでいるのか気になったが、アガサ・クリステイであるのも、そこはかとないユーモアをはらむ場面であった。
 彼女は自分の学生時代の政治運動に教授たちが加担してくれなかった失望から、自分が教授になったら学生を助けるという信念を貫いてきたと政治運動に関わる動機を語る。そして拡大する運動の中で、大勢の人を前に演説するときには足がガタガタ震えたとも率直に語るところが人間味を感じさせる。
 不正を前に何も行動しないで家で文句を言っていては、子供に顔向けができない。誰かがやってくれるのではなくて、自分が何か行動を起こす。国外には逃げないでセルビアにとどまって抵抗する、と彼女は自分の信念を当たり前のことのように語るが、それは非常に困難な選択であったに違いない。抵抗運動の指導者的立場であった彼女が大学から職を奪われた時、周囲の同僚が何事もなかったように振る舞い、彼女の講座を引き継いだことにショックを受けたというスルビヤンカ。それが現実であろう。
 革命運動は必ず失敗する、とスルビヤンカは断言する。ミロシェヴィッチ政権が倒れて文部大臣として内閣に参加したが、我々は何をどうするかの政権運営の展望がなかったので失敗した。そして、人々は次なる指導者を渇望する、と彼女は主張するのだ。次世代のミラ監督がその母の主張に対してどう思うのか聞いてみたかった。

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