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書評「大衆運動」

今回、書評する書籍に選んだ「大衆運動」の作者であるエリック・ホッファーは「常識」と「冷静」の人である。

激動の20世紀がスタートしてすぐに生誕したホッファーは他の同世代の思想家たちに比べてかなりの苦労人だ。
幼い頃に失明する悲劇に見舞われ(後に奇跡的に回復)若くして両親とも死別した。前半生はアメリカ各地で季節労働者として働き、後半生は港にて沖仲仕の仕事に従事するというアカデミアとは一見無縁の市井で真面目に働く労働者としてのスタイルが彼のベースにあった。
晩年にその思想が世間に認知されて以降、大学で講義を持つことはあったが所謂、我々がイメージする知識人や思想家(幼少期から豊かな文化資本に恵まれ、大学に進学し大学院からはエスカレーター式に大学研究機関やアカデミアに所属するなど)とは大きく異なったバックボーンの持ち主だ。
しかし、彼は本が好きだった。考えるのが好きだった。熱心に図書館に通って知識を深め、モンテーニュの「エセー」などの古典的名著を自己の思想の血肉とした。働きながら思考する人であるその姿勢が彼を現在も尊敬される思想家にしたのだった。

さて、少し作者個人に対する説明の前置きが長くなってしまったがここから本題に入っていきたい。
ホッファー最初の著作であり代表作である「大衆運動」(原題:The True Believer)は社会に於ける大衆運動の共通点や類似点を明らかにするという点が主題となっている。

それはナチズムやコミュニズムといった全体主義を求める運動から、アジア圏の独立運動などの民族的な大衆運動まで幅広くカバーしてある。
その中でも今を否定し、現状に対する強い不満というものをエネルギーや大義名分にした運動が勃発した際に時としてそれを安易に受け入れてしまう大衆の危うさ(これは今にも通ずる危機感でもある)
そして、そのような大衆運動に於ける知識人の役割(私はホッファーがここにかなり意識的に批判を割いていると理解した)を時代や立場に忖度せずに鋭く切り込んでいる。

大衆運動に関する考察が章の中で短く節を区切ってテンポ良く繰り出されていくので長文の中で何が一体言いたいのかわからなくなるという事とは無縁(そもそもホッファー自身が箴言の名手であり、箴言を集めた書籍もある)の作品である。
彼が真摯かつアカデミアというしがらみからも自由である為なのかナチズムとスターリニズムを全体主義という同じ土俵で批判している(本著が発売された当時は冷戦構造がほぼ確定し、西側の知識人には容共的な態度の人も少なくなかった)箇所も本著が優れている点だ。

彼は大衆運動を分析し、それを記すという中立的な立場を崩してはいないが「常識」や「良識」の立場からヒトラーやスターリンに対する批判の姿勢は一貫している(ただ、何故彼らが大衆運動に於ける悪しきチャンピオンとなったかは私情を挟まずその流れを中立に描いている)
フランス革命やロシア革命といった熱狂が生んだ破壊と新秩序に対してもどこか「冷静」な筆致で一貫している。そして、その熱狂に自分を売り込み、自己が国、市民、社会に役立つことよりもその運動やその後の体制に於いて重要視される事を第一の喜びとする一部の知識人に対してホッファーは冷徹な目を向けている。それはヒトラーやスターリンといった全体主義の大衆運動が生み出した独裁者たちに対する目線よりも冷ややかな目線に私には思えるのだ。

大衆運動を否定はしないがどこかそこに腑に落ちないものを感じる事もあり、過去から連綿と繋がる今を肯定することにやんわりと賛同する彼は正に「常識」と「冷静」の人である。
多様性や個性尊重の時代に於いて常識は扱いづらい難物として社会に横たわる。しかし、それを完全に破壊した先にあるものがホッファーが大衆運動に於いて分析したものであり特にナチズムやコミュニズムに顕著に現れている。
願わくばホッファー的な思考に熱狂ではなく冷静に賛意を示す常識ある人々が少しでも増えることを祈り、この辺りで今回の書評を終了したい。

ジョルノ・ジャズ・卓也

参考文献
エリック・ホッファー著
中山 元 訳『大衆運動 新訳版』(紀伊国屋書店 2022)

エリック・ホッファー著
中本 義彦 訳『エリック・ホッファー自伝-構想された真実』(作品社 2002)

友人でありライターの草野虹氏と「虹卓放談」というPodcastをやっています。よろしければこちらも視聴していただければ幸いです。




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