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想:しにたい気持ちが消えるまで

豆塚エリ『しにたい気持ちが消えるまで』を読んで思ったコト。

Amazonでは今日現在、品切れになっているようですね。
私は「病理医ヤンデル」先生が激賞していたので、何も確認せずに注文し、読みました。

以下には、抜粋は書きません。彼女の表現を陳腐にしたくないからです。

豆塚さんは、いわゆる「フクザツな家庭環境」という中で育ち、中学生の頃まで読書を糧に生きていた。厳しい義父からなじられ、韓国人の実母からもなじられ、辛かった。
せめて義父からは離れたい、両親に離婚してもらって別居するには遠方の高校に合格して移り住むしかないと考える。その方針に実母も賛成し、塾通いさせてもらい、大量の読書によって培われた学力をベースに猛勉強する。しかし、教育に厳しいくせに偏差値の意味を理解できない実母に、なんで(偏差値)100点が取れないんだ、頑張りが足りないなどと言われ続け、折れそうになることも。それでもギリギリで県内随一の高校に合格し、母娘は義父と離縁して高校の近くに引っ越す。

高校に入ると、母親には「東大に行けなければ大学には行かせない」などと言われる。

ここまで読んだとき、私は、母子家庭、かつネグレクトでめちゃめちゃな家庭環境ながらも、昼間は学校、夜は近所の公園で勉強して、みごと東大に進学した女性の実話を思い出した。

私が読んだものとはソースが異なるが、おそらく上記の記事に書かれていた女性だったはずである。この女性は、母親から「〇〇ちゃんは東大に行けるから東大に行ってね」と言われていた。この点が特に、豆塚さんと決定的に異なる。

豆塚さんは、中学生の頃から、いわゆるリストカットを始める。友だちもやっていたらしい。痛みによって、生きている実感を得ていたともいう。
もう、この時点で、究極の「自死」へのカウントダウンが始まっていたのかもしれない。

高校に入学してからは、複数の文化部と、なんと生徒会まで掛け持ちすることになり、「勉強どころではなくなった」。美術に文芸創作など、夢中になりつつも、だんだん気持ちが鬱に傾いていく。
わたしが思うに、この時点で躁うつ病を発症していたのだろうと想像する。躁状態のときにはなんでも頑張れてしまうが、その反動で、ガクンと「落ちる」。
そして豆塚さんはついに、私も経験した、「まったく動けない」状態になる。それでも豆塚さんは、二日連続、遅刻してでも夕方には学校にいった。しかしそれも限界、自宅にいるところに母親が帰宅して激怒。自死へのトリガーが引かれたのだった。

豆塚さんはいのちを取り留めるが、ほぼ首から下がマヒ、手の指先がかすかに動かせる程度で、手にも力は入らない。
こんな状態になって、「死ねなかった」けれども、それは肉体が「生きたい」と思ったからだろうと考える。

「しにたい気持ちが消え」た瞬間だ。

それから豆塚さんは、負った障害による不便さをリアルに描写しつつ、普通とは何か、生きるとはどういうことか、というようなことについて、読者に対し、哲学的な問いを投げかけてくる。同時に、過酷なリハビリを自らに課し、車椅子バスケや車椅子マラソンにまで挑戦するようになる。

彼女は、障がい者だからといって哀れんで欲しくない、自分は自分で楽しく生きている、といったことを書いている。そうなのだ、障がい者だからといって、皆が皆、最初から最後まで悲しみに浸ってばかりもいられない。豆塚さんによれば、障害の受容には数段階あるそうだ。最初は悲嘆に暮れる段階、そして徐々に受け容れていく。
この姿勢は、もう20年くらいまえになろうか、乙武洋匡氏の『五体不満足』にも書かれていたように思う。いや、乙武氏は最初から受容していたかな。乙武氏の場合は、生まれつきの障がいであること、両親がいたことなど、環境は豆塚さんとはかなり違うけれども。


豆塚さんは最後に、青少年に呼びかける。大人になれば選択肢が増える、自由になることが増える。だから、どうか、生き続けて、と。

サバイバーからの、切なる願いを、私たちや社会全体として受け止めて、若者の自殺を減らすために真に行動しなければと思った次第です。

最後に。豆塚さんは現在、さまざまなマスメディアに出ているようです。TVを見ない私には分かりませんが、どんどん発信してほしいなと思います。
                             おわり。