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1年の終わりに思うこと

気がついたら、もう大晦日。
正直、この2ヶ月ほどの記憶があまりないほどに忙しく、あっという間に2022の終わりを迎えてしまった。

今年の1月は唐突に夫婦で引っ越ししたいと言う願望が盛り上がり、物件探しに明け暮れていた。勝浦、横浜、平塚、湘南etc.
海が見えるところで暮らしたい、景色のいいところで暮らしたい、一軒家は管理が大変だからマンションで、という願望を抱え、景色を第一優先に探したが、ちょうどいいところが見つからなかった。

私たちが思い描く「海が見える」家は無いと分かり、景色がいい高層階に住みたい、とシフトチェンジし、ここ聖蹟桜ヶ丘のマンションに落ち着いた。

引っ越す前、私は実家から自転車で30分のところに住んでいた。
私の父はコロナに慎重すぎるほど慎重で、人と接することが多くリモートワークができない私を心配し、実家には会いに来るなと常々言っていたのでコロナ禍ではほとんど会っていなかった。(もしかしたら父がコロナになりたくなかったのかもだけど)時折母が、仕事で無人の我が家にご飯を置きに来る程度だった。

そんなだったのに夏のある日、私だけ家に来れないかと連絡が来た。(夫は連れてこないでと言う意味)珍しいこともあると久しぶりに実家に行き、そこで父がステージ4の癌であると告げられた。
その割にはまだ父は楽観的で、信頼できる先生のもとで抗がん剤をやるから心配ない、と言っていた。母もあまり心配しないでという感じで、私は「そうなんだ」と言うしかなかった。

それから1ヶ月と少しが経ち、私が泊まりがけの出張に行っている間に、父の容体は急変したらしい。出張だと言ってあったので母は連絡してこなかったので、知ったのは帰ってきてからだが。

お土産を持って実家に行ったら、父はいなかった。入院したのだ。抗がん剤も血液検査の値が良くなくて延期になったりしており、脳に癌が転移してしまいめまいやふらつき、呂律が回らないなどの症状が出てしまったらしい。

入院して、脳の放射線治療をすることになったそうだ。病院の先生からその後について説明を聞くにあたり娘さんにも来てもらったほうがいいと言われたから、と母が申し訳なさそうに平日休めないか言ってきた。

このとき、いよいよなのか、という思いが頭をよぎったが、すぐに考えるのをやめた。

先生の話を聞く前に、退院後の訪問医療やホスピスなどの説明や紹介をしてくれる看護師さんの話を聞くことになった。コロナで病室には入れなかったが、入り口から見た父は意外と元気そうだった。放射線治療が脳の癌に効いて症状が抑えられているらしい。

父は野鳥の写真を撮るのが趣味で、バズーカ砲のようなレンズをつけたカメラを持ち、しょっちゅう野鳥を撮りに行っていた。そんな父がレンズを欲しがっている、と母が言った。抗がん剤で体力が落ち、小さくて性能の良いレンズに変えたいんだと。でも高いから……

その場で「私が買ってあげる」と言った。父のカメラはマイクロフォーサーズ、たいして高くないだろうという打算もあった。
でもそこはインスタグラム平均200いいねを集めるカメラマン、なんとそのレンズ40万円!!!高ぇ・・・と思わず口が悪くなるほどビビったが、母の前で顔には出さなかった(と思う)

母は父に、私がレンズを買うと言ってることをすぐに伝えたらしい。
その後家族で先生に病状の説明を受けたあとに、父は1枚の紙を渡してきた。そこには買うレンズと、売るレンズが書いてあった。(そしてやっぱり欲しいのは40万のレンズだった!!!)てっきり先生の話メモってると思ったら違ったよパパ…

夫氏にそのことを伝えるとすぐに調べてくれた。そして人気のレンズで在庫がなさそうだ、と言う。新宿のヨドバシにあると調べてくれて、その日の夜にすぐに買いに行った。

父はその後、訪問看護の看護師さんやお医者さん、おむつ替えのヘルパーさん、ソーシャルワーカーさんなど、関わった全ての人に「娘がこのレンズを買ってくれた」と言ったらしい。実家でいろんな人に会うたびに「ああ、望遠鏡買ってくれた娘さん?」「(望遠鏡じゃなくてレンズだけど)そうです。」という会話を繰り返すことになった。

結局、父は退院後1週間かけてカメラをレンズに合わせた設定にするために試行錯誤し、1度だけそのカメラを持って写真を撮りに行った。鳥は撮れなかったけど写真仲間に会えたのでとても喜んでいた。

父の退院後は1週間に一回平日に午後休暇を取って実家に行った。仕事がだんだん回らなくなって、残業が増えたが行くのはやめなかった。父も心配だが母も心配だったからだ。本当は実家に住んで手伝いたかったけど、母が「パパのことは全部自分でやりたい」と言ってから、顔を出して話し相手になるようにした。

そして11月の終わりの日曜日、朝母が「パパが熱が出て具合が悪そうだから来て」と連絡があり、急いで駆け付けた。一瞬泊まりの支度や喪服いるかな?と思ったが、準備するとその通りになってしまいそうで、何も持たずに行った。

母と私では苦しいのかとか痛いのかとか分からず、結局その日は何度も看護師さんやお医者さんに来てもらった。

そして父は病気から解放された。正直、いつ亡くなったのかわからなかった。在宅だからモニターをつけているわけではない。ドラマみたいに「パパしっかりして!!!」みたいにならなかった。だんだん呼吸が弱くなったのはわかったが、酸素マスクの酸素の音で呼吸音がわからないばかりか、父が亡くなったらお金をおろせなくなると慌てた母が、銀行に行くとか言ってるうちに、という感じだ。

慶弔休暇の1週間、母と一緒にいた。けれどいつまでも一緒にいられるわけではない。引っ越してしまって自転車で30分の距離から電車とバスで1時間半の距離になってしまって、ますます一緒にいられなくなった。

父は優しくてほとんど怒られたことはなかった。JICAの事業で発展途上国にテレビ局やラジオ局をつくる技術提供をするエンジニアだった。私が理系に進んだのも、父の影響だと思う。
社会人になった時、仕事は「段取り八分」「生活リズムをきちんと刻むこと」とアドバイスをくれた。
そんなことをふと考えることが増えた。

父に買ってあげたレンズは、私の手元に戻ってくることになった。カメラにどういう設定をしたか、だんだん話すのが億劫になっていたときにも饒舌に話していた、そのカメラと一緒に。

もっと話を聞いておけばよかった、と思うこともある。でも、それも結果論だとも思う。

ただ、心の拠り所を無くしてしまった、ような気がする。残された母が心配だ。まだ四十九日も終わっていない。父と母は樹木葬にしたいと話し合ったそうで、その申し込みは来年になる。

まとめがグダグダなのは、私の心もまだ整理がついていないから。なんとまとめていいか、わからない。書いたら整理できるかと思ったけど、もしかしたらまだ早いのかもしれない。時間が解決することもあるだろうし、そうじゃないのかもしれない。

事実をまとめると
引っ越しをして新しい生活が始まり、そして父を亡くした。
それが私の2022。

2023は、母と過ごす時間を増やそうと思う。父にももっといろいろしてあげればよかった、母にはそんな後悔をしたくない。それも自己満足だと思うが、きっと母は自己満足でも許してくれるだろう。



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