朝井リョウ『何様』-オードリー若林氏の解説が最高だった

朝井リョウさんの『何様』を読んだ。

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あまり本編のことをかくとネタバレになるから避ける。
でも実際本編よりも解説のオードリー若林氏の
文章にやられたかも。

地味には地味なりの戦い方があるということや、
自意識を高いところに置いておくよりも
手の届くところに置いておいた方が都合がいい
(一種のあきらめとともに)ということなどなど、
若林氏の仕事や自己への向き合い方が
凝縮されるような文章。
小難しい人だなとは思いつつも、
私は小難しい人が好きなので親近感が湧いた。

中でも好きだったのがこの一節。

それは、成長だろうか?違う。適応だと思う。


成長という言葉の罠

私は成長という言葉が好きではない。
便宜上使うときもあるけれど、
使うときは自分の中に相当な違和感を抱えながら使う。
なぜならば、特に仕事上で使われる成長という言葉は
適応という意味であることが多いから。

取引先の心を掴む挨拶ができるようになること。
伝わりやすい企画書を書けるようになること。
上司とうまくコミュニケーションを取れるように
なること。

社会人というものに自分がなるための手段としての
「適応」。

私はこれを成長と呼びたくはない。

かくいう私も成長という現象の存在を
認めないというわけではない。
じゃあ適応と成長はどう違うのか?
私が思うに、適応と成長を分けるポイントは
自分の意思のある方向に進んでいるか否か。

取引先の心を掴む挨拶ができるようになること。
これだって、人に愛される人になりたいから
という意思があるのなら成長なのだと思う。

伝わりやすい企画書を書けるようになること。
将来人を動かすコンテンツを作りたいなどの
意思があるのならこれも成長だ。

私は適応ではなく成長を大事にしたい。
もちろん適応だって必要なことだから
甘んじて受け入れる。
ただ、それを「自分はこんなに成長したのだ」と、
自慢顔で語るような人物にはなるもんか、
と思っている。

若林氏が同じことを考えていて
なんだか嬉しかった。