Anti-Aging Record 『Assorted Box』 レビュー


 はじめに

 まず断っておきますが、AARお菓子コンピについてのレビューは既に存在します。

この文章はAARのメンバーが制作してくれた曲を起点にして、僕が思ったこと感じたこと、さらには日頃考えていることまでをなんとなく並べたような文書になっています。そもそもどんな饒舌も音楽の前には意味をなさない、僕はそう考えています。だから、一旦このレビューを見たら見たで、僕の雑感のことはすっかり忘れ去ってしまっても良いです。後は己の耳を信じて一つ一つの曲を聴いていただけると嬉しいな、と思います。
 もう一つ付け加えておくと、僕もこのアルバムに参加させていただいているのですが、なんだか自分の曲のレビューを書くということは少し重苦しいので割愛させていただきます。ともあれ一番最初の曲なので、心穏やかに聴いてくださると幸いです。

 2bnsn - Cinnamon Sugar  

 たまに彼とお話しすることがあるのだが、彼の口からよくtofubeatsやimoutoidといったアーティストたちの名前を聴くので、折に触れて聴いてみることがある。これは僕の勝手なチョイスに過ぎないけれど、彼らの曲を以下に貼っておく。

 これらの曲を慎重に聴いてみると、2bnsn氏の曲の根底にあるような、優しい電子音の織り成す独特でありながら心地の良いコードや、鈍いがはっきりとして落ち着いたパーカッションを、なんとなく聴き探ることができる。
同様に、2bnsn氏の曲を貼っておく(ボツになったものを貼るのはいかがなものかと思われるかもしれないが、僕はなぜこれがボツになったのか凡そ見当がつかないほどこの雰囲気が好きだ)。

しかし多くの人は、少なくとも僕はそうなのだが、では2bnsn氏の曲の奥深くにtofubeatsやimoutoidを見出すことができるのかといわれると、それは恐ろしく困難であるか、あるいは不可能であると感じるはずだ。僕は今、これが何故か考えてみるところから文章を出発させようとしている。
 個性という言葉がある。個性とはその人をその人たらしめる性質のことであることは間違いない。あまりにも当たり前な話であり、何をそんな馬鹿げた話をと思うかもしれないが、「個性を伸ばす教育」とかいったスローガンに代表されるように、今の世の中を見ていると、個性的な人間とは単純な選択と集中を急いで行った結果のもとに作り上げられるものだという考えが横行しているような気がしてならないのだ。当然断固たる選択と集中が存在しているとき、個性的な人間は確かに作り上げられるのだが、その先に待っているのは、孤独以外に何があるだろう。個性を単独で追及することは非常に危険な行為であり、多くの場合破滅をもたらしてしまう。本当に個性の追求は、そこまで排他的にしなければできないことだろうか。個性とはそこまで殺伐としたオブジェクトだろうか。「充実した人生の追求」とは誠に陥穽に満ちた言葉だと思う。そんなことをしないまでも人々に与えられた時間の長さを考えれば、無意識のうちに、それまでに見聞きしたもので各々の世界が形成されていくはずだ。各々の時間は、各々しか形成しえない。それだけで十分個性というものが出来上がる。個性は商品ではない。焦る必要はないはずなのだ。僕は2bnsn君の曲のレビューのことを忘れたわけではない。彼の曲には確かにtofubeatsもimoutoidも眠っているのかもしれない。だが僕らがそれを直接発掘することは恐らくできないだろう。なぜなら、彼の見てきた様々な世界の中にアーティストたちは希釈されて、彼の手によって新しい命を吹き返すからだ。彼の積み上げてきた時間や技術、才能によって、それらはすっかり吸収され彼の一部になってしまうからで、これは彼にしか作れない音楽であり個性そのものだからだ。これは僕の勝手な甘言などではなくて、先日行われたAARアドヴェントカレンダーで彼の記事を読んで得た印象をそのまま述べただけだ。

 創作に現れる個性とはその人の過ごしてきた人生そのものであり、他人の作った音楽を鑑賞するとは、その人の人生に敬意を持つことだ。人生に根差した個性ほど面白いものはない、僕はそう考えている。今回Assorted Boxに収録された 『Cinnamon Sugar』も当然例外ではない。future bass的な曲の背後で時折鳴るCinnamon Sugarのようにキラキラしたシンセ、ところどころで現れるリバーブの抱擁、3:00あたりで一気に解放される緊張感(これらは特にprogressive houseの作り手の持つ技術なのだろうか)、そういったものが混然一体となって生まれる曲に対して、彼の過ごしてきた時間、つまり音楽経験や技術、それらを織り交ぜて一つの音楽を作り上げる彼の天性を直に感じ、驚嘆せざるを得ないのだ。

 2bnsn君の曲のレビューが、書いているうちに音楽を制作しているすべての人へのレビューに代わってきてしまった感が否めないが、記事の初めのほうを飾る文章としてはこうなっても差し支えないかもしれない。なお2bnsn君はかなり腕の立つDJなので(近頃腕の立つDJが多く在籍してきたせいで、AARがDJサークルに変貌しつつあり、僕は少々肩身が狭い!)、機会があればクラブなどに行って彼の流す音楽に酔いしれるのもよいと思う。先へ進むことにする。

北村緑 - 知育菓子

 シンセサイザーが音楽の世界に導入されてどのくらい経ったのか知らないが、影響は計り知れない。北村緑君の曲は決して多くのトラックから構成されているわけではないけれど、それゆえにひとつひとつのエフェクトやサウンドに電子音ならではの特徴が表れており、聴いていると楽しいものがある。
 知育菓子はもともと子供にお菓子を自ら作る機会を与えようという目的で生み出されたらしく、権限の問題で名前を容易には出したくはないが、後にでてくる粉を練りまくるやつとか、伝統的日本料理を模したやつなどがこれに該当する。当然子供たちが一からクッキーなりマシュマロなりを作るのは困難だから、材料が最初から用意されて、定められた手段で混ぜてお菓子を完成させる。この一連の流れを「創造的」と呼んでいるようだ。僕はここに一種DTMと似たものを感じる。
 DTMの世界にもオブジェクト指向じみたものが侵入してきているな、と思う。最初のうちは最小限のプリセットで曲を作っていたとしても、そこからできる曲を拙さと錯覚して、プロが作ったサンプルパックを導入するようになる。そのサンプルパックの属するジャンルにあっという間に染められて、要はプロの作った製品の拡張を作るようになる。気が付くとHappy HardcoreだのDetroit Technoだのに入門している。最終的には決められた型の中での作曲に到達する。そういう曲作りがよくないということを言いたいわけではない。むしろよりいい曲が作りたいと願ったときの当然の行為であり、目的を持つことこそ大切なのだが、これは自分の個性と創造性が目的の中に埋没する危険性をはらんでいる。むしろ埋没の危険から逃れることは難しく、たいていの人は商業主義に均されたり、「受けのいい」音楽を作ることに終始する。僕は商業主義が文化の発達を促すと思っているので、これはいいことだと思っているけれど、個人にとってどうかは知らない。
 ユニークであることをいつまでも掲げていると破滅するけれど、DTMを始めたての瞬間に生まれる独創性ほど貴重なものはない。北村緑君曰くまだそうたくさん曲を作ったことがないらしいが、彼の音楽には、目的に隠れてしまう前の純粋な音楽が見え隠れしている。見え隠れ、というのはすでに凶悪さと無邪気な軽やかさの入り乱れる器用な音作りによって、センスと今後の作曲ジャンルの指針が垣間見えているのでそう思っているだけだ(後述の合作バイアスもあるかもしれないが)。北村緑君は音ゲーの達人だと聞いたので、やはりAAR9期音ゲー曲界隈に吸収されていくのだろうか…。なお音ゲー曲については次のkuvotas君のレビューでも述べたい。

kuvotas - Ultimate Chocolate Sundae

 大学入学したての時だったか、ピアノにある程度習熟しているのだから、鍵盤を模した音ゲーの敷居は低いだろうと愚かにも感じて、弐寺に手を出したことがある。眼高手低、あっという間に挫折して今ではもうほとんど筺体に触れることもないのだが、音ゲーと実際の演奏の乖離、そのすさまじさを痛感したものだ。『Ultimate Chocolate Sundae』の華々しいイントロは『Rootage』のトラウマを僕に呼び起させるような、一種個人的な感慨があった。今思えばあれが音ゲー曲との出会いだった。

 音ゲーに関しては、流れてくるノーツ一つ一つに自分を合わせていかなくてはならないのが難しい。そういう意味で音ゲーをやっている人間は演奏というよりは強制的な鑑賞に近いことをやらされている。音楽鑑賞は僕も好きだけれど、そういう鑑賞の仕方は望んでいないから、音ゲーを今では全くやっていない。ところが音ゲーに収録されている曲それ自体は、AARに所属して曲作りの勉強を重ねていくにつれて、僕にとって興味深いものになっていった。曲を一つとってみてもいろいろな発見がある。ディレイやリバーブも計算されたうえでかかっているし、ハイをカットする、ひずみを加える、要するに曲ごとの雰囲気に応じた手段が択ばれている。2年前には考えもしなかったことだ。趣味だって勉強なのだ。
 何も音ゲーに限った話ではない。街中を歩いてみればそこかしこに音楽が流れていることに気が付くだろうし、そこには繊細な技術が集約されている。曲を作る人間の苦労もわかるし、それを思えばたった数分の音楽にも価値を見出すことができる。きっと音楽以外にも、行動次第で何か価値を見出せるものがきっと増えるのだろうし、楽しむことができるのだろう。勉強という行為には大きな意義がある。途中で投げ出したりしてはならない。
 『Ultimate Chocolate Sundae』の中には煌びやかなシーケンサーや壮大なリード、リズミカルなメロディーなど、音ゲーに収録されているような曲の構成要素がほとんど十分に備わっているので、今後kuvotas君がもしBoFUなどのイベントに参加することがあればなかなかの注目作品を提出してくれることだろうと思う。

 Beqqor - Awsomacaroon!!

 以前Beqqor君がAAR-vol15.5 HARDCORE-COMPIRATIONのレビューの中でじお君のことを「努力家」とよんでいたのだが、それは事実かもしれないにせよ、僕に言わせればBeqqor氏こそAARにおいても屈指の努力家だろう、そんなことを考えながら記事を読んでいた。たとえ彼に直接接したことがない人でも、彼の音楽を聴くだけでそういう印象を受けるに違いない。何しろBeqqor氏の作る曲には、彼の不断の探求によって身に着けた技術と挑戦とが、至る所で顔を表して我々を驚かせるから。
 『Awsomacaroon!!』を聴いているとわかるように、主題は変化し続け、疾走する。それらを追っているうちに、曲は気づくと終わっている。さて、たとえばトランスやテクノなどには形式というものがあって、皆その枠の中で曲を書いているのだが、彼の曲は疾駆し、一見決まった形式のもとで音楽が進むわけではないように思える。こういう曲は普通ひどく不揃いで脈絡のない音楽になってしまいがちだと僕は考えていたのだが、彼の作る曲にはなぜか妙な統一感を感じ、心地よくさえある。これをただ彼の力量というだけで済ます気になれないのはどうしたものだろうか。
 人間は音の波形を直接操作するような技術をたくさん手に入れ、それをDTMに生かしている。もともとピアノ曲など古典派の音楽ばかり触れてきた僕にとってこういう音楽は新鮮であり、同時に今まで見えてこなかった音楽の新しい可能性というものを感じたものだ。フィルターにディレイにディストーション、人間の力の及ばない部分を機械に任せ、人間の手に負えないような音楽を作り上げる、これこそ機械革命だ。そのうえBPM999などという馬鹿げたテンポにすら中毒性を感じてしまうのは、なかなか面白いことだ。まちがいなく、電子楽器の発明は音楽界に大きな変化をもたらしたといえよう。

こうなるともう、聞こえてくる音楽に対して我々はただその後をついていくしかない。例えば音ゲーの楽しさというのはここから生まれてくるのではないか、そんなことを考えた。暴力的な音楽はかつてない刺激をもたらし、その刺激に我々は興奮するのだ。ここにBeqqor君の曲にも似たようなものを感じた。僕は何も彼の曲が暴力的だなどと言いたいのではないが、彼の曲は音ゲー宜しく、DTMの出せる味というものを使いこなして縦横に踊るので、聴いていても飽きることがない。曲が終わったときには、一つの曲をプレイしきったような心地よい余韻がある。これが「妙な統一感」の正体なのかもしれない。そんなことを考えた。
 もともと斬新な進行やリズムを多用するのは『Happinessprash!!』にもうかがえる。


この曲を聴いてわかるように、シンプルな同音反復や複雑なコード進行に沿って動き回るメロディーは、我々の感覚をダイレクトに揺り動かしてくる。これらにBeqqor君の作曲上の試みがこれでもかと詰まっており、まさに名曲といえる。しかし今回、それらにグリッチなどの抜群のエフェクト技術が加わることで『Awsomacaroon!!』はさらに聴き手を心地よく翻弄する曲となった。中間発表の時点で、本人は「『Happinessprash!!』の正統な続編」と言っていたが、続編というより進化してまるきり生まれ変わった作品になったといったほうがいいかもしれない。この間、わずか1年にも満たないが、彼の音楽に対する広範な興味と強い意欲を考えれば当然だろう。曲の最後を包括するダイナミックなメロディーは、今後の成長も大いに期待させるものがある。要は彼は歩き方の天才なのだ。

hiba & 北村緑 - ねるねるねるねる

 マーラーの交響曲第6番には、オーケストラにはおよそふさわしからぬ「ハンマーによる打撃音」が登場する。オーケストラの壮大な響きの中に、この一種雑音ともいえる音が含まれていること自体異常だが、この異音が曲全体の『悲劇的』な印象を作り出す重要な要素になっている。ある一連の決まった流れの中に、印象が全く違うものが紛れ込んでしまうことで、全体の印象に少なからぬ影響をあたえることが多い。さながら上記のマーラーの曲のように。『論語』における「子曰 甚矣 吾衰也 久矣 吾不復夢見周公也」の段のように。僕の中では、この曲はAssorted Boxの中でもそういう位置づけで、聴いた後も妙にしっくりしない気分が僕を襲った。砂嵐のようなキックがまだ僕の頭には残っていた。

 あの曲と同じような印象を、某知育菓子から得られるものだろうかと思って、参考までにと上のCMを見た。魔女が粉末状のペーストを混ぜて口に運ぶ。満足そうにうまい!と叫ぶ。いかにもメルヘンチックで見ていて安らぐコマーシャルなのだが、よく考えると魔女というものはもともとこうも平和なキャラクターではなかったはずだな、と思った。近代以前の魔女のイメージは今よりずっと深刻なものだったことは、よく知られていることだ。彼らは妖術を使いこなすだけではなく、時には自然を支配するという形で自ら手を汚すことなく他人を傷つけたり、背教的な行為をしでかす害悪な存在だとみなされていた。
 中世ヨーロッパで行われた魔女狩りは、現代にも起こりうる社会不安を扱ううえで教訓めいた出来事になっている。魔女狩りの恐怖は、魔女というよりはむしろ、自分が魔女だと疑われることにある。そして「魔女でない」ことを根拠だてて示すことなど不可能に等しいのだから、うっかり告発を受ければそれまでだ。魔女は男にも化けることができるのだから(と信じられ)、男女分け隔てなく、何万という民衆が殺し合いをした。隣人すら信じられなくなったような地獄を努めて想像してみるとよい。最盛期は16~17世紀くらいだったらしいが、集団ヒステリーという人間臭い様相はたとえ小規模であってもどんな時代にも起こりうるものだろうと僕は信ずる。そしてどんなに人為的であったとしても、騒ぎが大きくなってしまえば、こうした社会不安は天災と同じくらい手に負えない代物となってしまう。人間にとって社会というものは、実は獣のようなもので、いざ暴れだすとなだめることは難しい。そして最後には、多数の犠牲が出ることになる。
 これはただ過去に起こった話として放っておくわけにはいかない。新型コロナウイルスが日本に上陸してある程度の蔓延を見せているから大学から外出を控えるよう勧告がなされ、結果今僕が暇に任せてこの文章を書き散らしているくらいだ。世では不当な差別が起こり始めたり、マスクをめぐって暴力沙汰になったり、トイレットペーパーが品薄になるといって買い占めが起こったり(本当に、歴史は勉強しておくべきだ!)と、人間の目を覆いたくなるような諸相が明らかになってしまっている。結局人間は差別が大好きで、自分のことしか考えておらず、根拠薄弱な情報にたやすく騙される。社会という巨獣を手なずけるにはあまりに不安定な存在だったことが理解できる。こう反省している僕もいつこういう混乱に飲み込まれてしまうか心配だから、気を引き締めていかなければならない。手のつけようがない社会不安というものは何をきっかけに起こるかわからないし、どういう結末に終わるのかも決して分かったものではない。確かなのは、魔女がすぐそこまで迫っていることだけだ。一種ある恐怖にさいなまれている気分に、『ねるねるねるねる』の最後の不気味に鳴り終わるシンセが重なった。

 ついでにだが、最後に僕が最近読んだ小説『ペスト』(カミュ)のある文を引用して終わっておこうと思う。長文を引くだけの価値はある。

 天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかも、ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。医師リウーは、わが市民たちが無用意であったように、無用意であったわけであり、彼の躊躇はつまりそういうように解すべきである。同じくまた、彼が不安と信頼との相争う思いに駆られていたのも、そういうように解すべきである。戦争が勃発すると、人々はいう『こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから』。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気がつくはずである。わが市民諸君は、この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかりを考えていたわけで、別のいいかたをすれば、彼らは人間中心主義者であった。つまり、天災などというものを信じなかったのである。天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去って行くことになり、それも人間中心主義者たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。わが市民たちも人並以上に不心得だったわけではなく、謙譲な心構えを忘れていたというだけのことであって、自分たちにとって、すべてはまだ可能であると考えていたわけであるが、それはつまり天災は起りえないと見なすことであった。彼らは取り引きを行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らは自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。

CPL - Abandoned Tea Party

 中間発表の際、CPLさんはこんな風に曲の説明を加えている。

皆に忘れ去られたお茶会。
テーブルには崩れたマドレーヌと冷めた紅茶。
広間に響く、切なく暖かい音色。
屋敷の住人は、この世界にはもう居ない。
そんな物語をイメージしています。

 『Abandoned Tea Party』を聴くにあたって僕も同じように風景を努めてイメージしてみようとする。上の文章がよい助けになるのだが、この文章が仮になかったとしても、この曲は聴き手の創造力を刺激するのに十分な表現の豊かさを持っていると思う。後述するas key_さんの曲と同様、生音を使った繊細な音色が特徴的で、どこか古典的な匂いもする。この匂いはただ単にハープシコードから来ているわけではあるまいと思う。古典的な音楽は、その形式の堅さゆえに、音楽にある程度習熟していないと作れないので、これも一種の音楽経験の長さから来ているのではないか。
 CPLさんの曲はバンドテイストのものが多く、それゆえ歌物との相性がよい。たとえば最近作られた曲をいくつかあげてみよう。
 

 バンドテイストの曲は、もともと一人で演奏させるものではない為に、勢いや音圧重視のクラブミュージック或いは音ゲー曲に比べて緻密な構造を保たなければならないが、それが奇麗な束になって流れていく『テイク・オフ』は聴いていてとても心地よいものがある。僕も最近初音ミクを買って、勉強がてらCPLさんの曲を含めいろいろなボカロ曲を聴いているのだが、一つの曲において今から僕が導入しようとしている歌詞とはどういう存在なのか、それをここ最近考えていた。
 結論から言ってしまえば、歌詞はそれ自体が楽器の一部のようなもので、内容の伝わる伝わらないは二の次だ。普通文章があるとき、たとえばその文章を別の言葉で置き換えたり、組み替えたりして説明することができる。説明できたとき人は「理解した」ということができるが、歌詞でそんなことが可能だろうか。歌詞は要するに詩であり、使われている言葉そのものに意義があるために、今述べたような意味で理解することは決してできない、と僕は考えている。当然歌詞だけでなくメロディーだって「説明」できるものではないし、グルーブだって「理解」できるはずがない。だから僕は必要以上に音楽理論を振りかざす人たちをあまり容認できないわけで、音楽に分析は無駄だ、ということをレビュー全体の中で何回も言っている根拠はそういうところにある。もちろん作曲における共通言語として理論を学ぶことは多少必要だとは思っているけれども。
 当然音楽の世界と詩の世界は異なるものであり、二つの世界を統一しようとする試みが世で歌物として行われている。それが成功した作品を鑑賞するときの感動は特別で、長い歴史において人間が歌というものをずっと好んできた理由も少しだけわかってきたような気がする。CPLさんのボカロ曲の歌詞は、必ずしも本人が書いているわけではないようだが、それでも歌詞からあふれるみずみずしさを曲とマッチさせて素晴らしい作品を作る、その力に脱帽している次第だ。
 『Abandoned Tea Party』に歌詞はないが、僕にはこのメロディーに歌詞が自然と見えてくる。寂しいお茶会の中用意された、時間が経って湿気そうなマドレーヌ、紅茶と共に。

as key_ - brioche

 as key_氏の生音へのこだわりは昔から貫かれているようだ。僕は彼の過去作品の中ではとりわけ『春ル告ゲ』が好きで、単純に生音を使うというだけではここまで滑らかなピアノの流れも再現できないものだと思う。メロディーセンスもトランペット経験に磨かれて、この上なく聞き心地の良いものになっている。下にas key_氏作曲のものをいくつか貼っておく。

 これは今回の『brioche』にも言えることだが、DTMであるにせよ、まるで生演奏しているような統一感と息遣いが感じられて、背後にas key_氏の指揮によるオーケストラを感じるようだ。あまり機械に演奏させているという感じがしない。
 as key_氏の曲を聴いていてふと思い出したことがある。僕はB1の後期に基礎セミナーBで音楽制作に関する講義を受けた。最終講義で一議論させられたのだが、その時のテーマは「人間の演奏する音楽、機械の演奏する音楽はどちらがよいか?」というものだった(僕はこのテーマ設定をその曖昧さゆえに今でもあまり好んでいない)。結局その場で結論は出ないで終わってしまったけれど、1年たって今考えていることを一部、ここで書いておこう。
 僕は吹奏楽部に所属していた経験はないが、たまに彼らがピアノを使う曲を演奏するので、臨時部員として参加することがあった。ピアノは当然、一人で弾くことのほうが圧倒的に多いので、普段と全く異なる環境での演奏は新鮮味に溢れており非常に楽しかった。僕がオーケストレーションの妙味に気づかされたのはそのくらいだっただろうか、と思う。数十人で楽器を演奏して音が散逸しないということはなかなか不思議なものだし、単に音圧が増す以上の何かが生まれる。「全体が部分の総和に勝る」というのはまさにこのことをいうのだろう。この経験は、少人数にはなったが、キーボーディストとしてバンドに参加する際にもまだ生きている。
 音楽を集団で演奏する時、そこには生きた人間同士の間で作り上げられる「小さな社会」が存在する。その秩序は当然演奏者の技量によってまちまちなのであるが、なにしろ平和な街なので、演奏する側も、聴いている側も、一時的な精神の落ち着きというものを得ることができる。生演奏が人間にとって心地よいものになるのは、人間がもともと社会的動物であるせいではないか。人間が音楽を奏でる時、そこにあるのは音楽だけではない。集団演奏とは、社会つまり人間の相互の信頼や愛情というものをお互いに確認する機会だといえる。そうでもなければ、社会とは殺伐な契約システムに終わってしまうだろう。Beqqor君の曲のレビューでも述べたが、電子機械の発明は音楽界に革命をもたらし、世に流通する音楽の形を一変させた。それでも人間が直に作り上げる音楽というものの本来の目的が脅かされることは、現代においてもなかった。僕は未来においても一切ないとすら言いたい。どちらの演奏のほうがいいということは一概に決定できるものではない。どちらにだって可能性はある。音楽におけるすべての抽象的議論や分析は無意味だと僕は信じているけれど、結論の一つとしてそういう意見に達していることは述べてもいいだろう。もっともas key_氏の曲は、先ほども言ったように背後に生きた人間の姿を感じるので、聴いている側も安心感を得ることは間違いないのだが。
 今回の『brioche』も耳を澄まして聴けば、本人の長い演奏経験に基づく人間の息遣いを、ブリオッシュの優雅な香りと共に、堪能することができると思う。なお僕は生音系DTMについてはあまり詳しくはないので、具体的に何か作ってみたいという方は下記事を参照するといいと思う。かなり網羅的に紹介されている。


おわりに

 時の流れは速いものです。すでに僕もB3ですから、そろそろ今後の進路について真剣に考えなければならない時期で、そして残念ながら今のところ、その進路に音楽という選択肢がないので、趣味は趣味として一度割り切らなければならない局面に来てしまいました。そんな中でも僕にもいくつかの反省の余地があると思います。全力で打ち込めなかった全ての事柄には後悔が付き纏いますが、僕の後悔としては部会にあまりいけなかったこと、皆の作る音楽にあまり触れられなかったことが挙げられます。正直入学当初は、サークルに所属するにあたっては最低限のアドバイスさえもらえれば良く、評価されてもされなくても我が道を行こう、というスタイルをとっていましたが、2年間サークルに在籍してみて、思ったより周りが自分の曲を聴いてくれていることに気付いたし、他の人の作る曲を聴いて感動することのほうが、よっぽど成長に繋がる、何より楽しいということが分かってきました。2年間在籍して徐々に、ようやくです。愚かなものです。
 しかし今言ったように、決して音楽から完全に手を引くことはないにせよ、今後サークルに足を運ぶ頻度はさらに少なくなってしまうでしょう。だから一つの区切りとして、日頃の感謝を込める意味で、皆さんの曲のレビューを書いてみることにした次第です。創作活動は孤独な作業ではないし、またそうあってもいけない。それがレビュー全体を通して伝わったなら、幸いです。