一年の計は元旦にあり

 よく知られたweb漫画『金魚王国の崩壊』の中で、藤代ミカゼが妙なことを話す。

私は 過去の自分の考えを 破綻するたび否定してきた
なにしろ今日からこう生きようと決めても 次の日にはもうその生き方は適用しなくなっていて
また別の生き方に変えていかざるをえなかったのだ
新しい思想を作っては壊し 作っては壊し
かつてはそんな私が嫌だった でも今はそうでもない
私は否定することを肯定するのだ
私は自分の意見を否定する 昨日の私の意見を今日の私は否定する
今日の私の意見は 明日の私が否定する意見だ!…

 友人のユカがしばらく黙ってそれを聴いているのだが、話を一通り聞き終えた後、優しく「いつだってミカゼちゃんはミカゼちゃんだってことだよね」と、あまり易しくない言葉を投げかける。僕はここにデカルト風味の思想を垣間見るのだが、少女たちの醸し出す異常な雰囲気が、漫画であるということを飛び越えて、僕の生活に直接語り掛けてくるようだ。
 人の考えていることは日々、いや時々刻々といってもいい頻度で変化していくもので、そういうごく不安定な精神に対し当事者である我々はしばしば罪悪感というものを抱く。僕自身、この感覚から逃れられない哀れな人間の一人であり、AARアドヴェントカレンダーが催された折にそんな思いから一文を草したことがある。新しいものを学び取り吸収することが異様なほど促される現代人の尋常な生活において、自身の一定の考えや精神を長期間保持していくことは非常に難しい。
 年が改まり、2020年になった。「一年の計は元旦にあり」という言葉を最初に生み出したのは誰だか知らないが、あまりにも理にかないすぎていると僕は思う。時間と密接に結びついた自分の人生に誠実になろうと、一年のうちで一番精神が煮えたぎるのは、やはり大きな節目である元旦であろうし、ここでできなかったことは一年を通してできないだろう。そういうことを、20年余りの人生でいよいよ合点して、より強い意識をもって元旦を過ごしてみた。どうせだから一年を通して何か大きな事に取り組んでみたいものだ。そんな平凡な発想のもと、量子情報を勉強してみようかと思った。量子情報というのは、長い歴史を持つ物理学の中では比較的新しい分野であり、最近ではgoogleが量子コンピュータを用いた計算の高速化に成功したとかで大きな話題になった。物理学科で量子力学を学んでいるし、趣味で多少情報分野に触れている自分にとっては少なからず魅力的な分野である。もうじき研究室を決めなくてはならない時期であるし(ちなみに名大の物理学科で量子情報を扱っている研究室はない)自分の強みを作っておきたいものだ。元旦からそんな風に心を躍らせていた。翌日早速栄の丸善へ出向いて、量子情報の本をあさってみたが、数ページ眺めた時点で何となく気落ちしてしまった。そう、僕はもとよりアルゴリズムの理解をそれほど得意だと思っていないし、そもそも趣味で情報分野に触れているのと情報学部の人が日々鍛錬して身に着けているような知識を回収しているのとは全く話が違う。自らの愚かさゆえかすんでいた壁の厚みに愕然としたわけだ。では僕の本当に強い分野、あるいは強くなろうと試みて差し支えない分野とはどういったものになるのか。現代の物理学は極端に分類してしまえば二つ(あるいは三つ、これは先ほどの量子情報、もっと一般には「量子〇〇」である)に分類される。一つは素粒子、もう一つは物性だ。兼ねてから研究室選びには困っているが素粒子に今一番心を惹かれている。世界の究極構造(一応、僕はそういう対象が人間の認識能力内に存在することを信じている)を理論的に明らかにしようという試みは、この世界にいったん生を受けていずれ死にゆく者の内在的願いであるといっても過言ではないはずだ。しかし今内在的願いであるといったところに大きな問題がある。究極を追う時、俗世から浮足立たねばならないが、夢に浮かれている人々に将来は約束されない。「理論物理学の世界とは誠にアイデアの墓場である」砂川重信先生は彼の著書『電磁気学』のなかでこう述べているが、中でも開拓中の素粒子分野はいつどんな理論が否定されるかわからないし、社会はそれに同情するような夢想家たちの集まりではない。要するに、僕は言うまでもなく進路に対して迷子になっている。ライフステージは変化し、ここまで僕を取り巻く環境やこれからの可能性が細分化され専門化しているにも関わらずだ。
 どうして人は自身の進路に対して迷子になりがちなのか。いったんこの世に人として生まれ落ちた以上、与えられた時間に対して誠実になろうと試みるのは極めて自然なことであるし、僕らはいつも理想の中にぼんやりと「完璧な人生」というものがちらちら浮かんでいるのを何の気なしに眺めている。だが同時に、僕らは決して「完璧な人生」というものにはたどり着かない。理想は常に変化していくからだ。目標は高く昇っていくだけではなく、姿を変えて私たちの欲望を翻弄する。人生という映画の中で自分は楽しそうに踊っている。それを鑑賞している自分はあたかも他人のような実感を持ってそれを眺めている。僕が向き合うべきは映画ではないとわかっているのに。結局僕の人生には緊張感というものが足りていない、それだけなのだろう。緊張感とは、目標の遂行に対する緊張感だ。目標とは一創作物ではない。
 藤代ミカゼの偉いところは、徹底的に自分に誠実であるところだと考えている。しばしば自分の考えを作り直したり、跡形もなく破壊したりするが、筋は絶対に崩さない。設定した目標を、外的な擾乱を受けるまで、頑固なまでに保持し続ける。気まぐれから自ら手放すことはないのだ。「今日の私の意見は、明日の私が否定する意見だ」、軟弱な意志を持つ人間にこういう物言いはできない。彼女は決して諦念とか疲労とかを表現してはいない。一見彼女の考えが不安定に見えるのは彼女の広げた心の網があまりに広いからであり、自分の考えが変化していくことを受け入れたその瞬間、彼女の精神もまた一段と強靭さを増したということができるだろう。僕自身体得したいのはこういう強さを備えたうえでの自分への信頼であり、寛容さである。目標は外的要因を受けて揺れ動いていくだろうが、その揺れ動き具合を見定めて、芯をとらえ、追及の手を緩めず日々精進を重ねていく、そういう態度で生活できていければと思う。
 ところで音楽活動に関してだが、この1年はボカロPとしての活動に専念していこうと考えている。何か道に迷ったら一つ道を定めて方向を変えず進んでいくのが有効であると感じたからだ。これはデカルトの方法の一つでもあるし、藤代御風のポリシーでもある。一先ず準備は揃えた。Cubaseを入れたのはもう一年と半分以上前のことになるが、当時の自分は何を思って僕を見つめているだろうか、いやそんな考えは幻想に過ぎまい。学生は夢想家たれ、だ。僕はe-Licenserを手に取り、しげしげと眺めていた。