統計力学Ⅰ(田崎晴明 著) 感想

 昨年の出来事だが、普段通り熱・統計力学の講義を受けようと教室に入ったところ、聴衆は知らない顔ぶれの人々ばかりであり、担当教員もいつもと違う方で、あれ教室を間違えたかなと思い確認すると、その日開かれていたのは非平衡統計物理学の特別講義で、弊大学に佐々真一先生が招かれ、自身の研究内容を熱心に語っているまさにその最中であった(講義自体は休講だった)。踵を返すのももったいないので、適当に席を見つけ話を聞いていたのだが、やはり前提知識がないとこういう話は退屈だ。結局最後まで聞くことはできず、自身の未熟を痛感するだけで終わってしまった。もっとも統計力学に関するある意味主体的なアプローチとして、これが一番古い思い出だろうなと考えて、この話をしているに過ぎない。
 熱力学に関しては、永久機関に代表されるように古くから人類が関心を寄せていて、近代に入るとボルツマンやギブスなどの偉大な科学者たちの手により大きく進歩した。要するに解析力学や電磁気学と同様、近代科学が既に大枠を作り上げてしまった物理学の一学問分野である。熱力学から派生し、量子力学と並び現代物理学の根幹をなす統計力学も当然、ある程度の枠はできている。ところが、そんな統計力学の一分野である「非平衡統計力学」は、科学の進歩した現在においても完成していないどころか、研究の方向も固まっていないらしい。この分野については僕もさして明るいわけではないので、たくさん書けない。つまりあの特別講義からさしたる進歩はしていないことになる。とはいえ、最近平衡統計力学という統計力学のかなり基礎的な部分を垣間見て、わずかに知識を得た。春休みにたくさんできた時間で、田崎晴明先生の書いた統計力学の本を読もうと思い、遂に今日Ⅰを読み終わったので、まあ感想文くらいは書いておこうかなくらいの気分で書いているわけだ。

1.著者にとっての「平衡統計力学」

 田崎先生は、本書の中(主に4章)で平衡統計力学に関する一筋の思想を繰り返し述べている。

 マクロな熱力学の体系と整合するように、ミクロな(量子)力学の体系に確率分布を導入したのが、平衡統計力学なのだ。(P.81)
 マクロな系の平衡状態の(マクロな)性質を、系のミクロな力学の情報に基づいて、定量的に特徴づける理論的な枠組みが統計力学である。(P.100)

 19世紀、マクスウェルやギブスらによって、熱力学に一定の枠組みが設けられていった。それらはマクスウェルの関係式など、美しい方程式によって記述されるのだが、結局今や古典的な範疇内の話で、20世紀に入りミクロな世界観「量子論」という、さらに新しい風が吹き込まれることになった。熱力学が先にあり、量子力学の助けを借りて、統計力学が発展することになったわけである。僕はどちらかというと、やはり量子力学の収めた成功は計り知れないものだなと改めて感動するのだが、最終的な目標はマクロな物理系の記述であり、量子力学的描像の極限としてふさわしいかどうか、それを確かめなければならない。そこで必要なのが状態数や分配関数の定義で、ようやくここに量子状態をまとめ上げて物理を扱おうとする、平衡統計力学らしさが現れる。分配関数にエネルギー固有値が関わってくる以上、エネルギーの期待値と分配関数にも簡潔な関係が成り立つのだが、これを嚆矢に比熱などのマクロな系の情報を得ることが可能になる。その様はあまりにあっさり書かれているので、注意深く読まなければその凄まじさを見過ごしてしまう可能性があるが、のちに連なる目を見張る応用は、何しろ圧巻だ。田崎先生の統計力学の見方はこの章周辺の論理展開にはっきり現れていて、一度全体を読んでから再びこの主張を見直すと、おおいに納得がいく。

2.結局、調和振動子

 ハミルトニアンが運動量と位置の二次斉次式で表されるような力学系を調和振動子という。ディラックの『量子力学』のなかでも、「量子力学の力学系の簡単なしかもおもしろい例」として紹介されているくらいなじみの深いものだが、統計力学においても非常に重要である(物理学において調和振動子の研究がそれくらい深くなされているということだろう)。調和振動子のエネルギー期待値や比熱を研究することによって、結晶の物理的性質や黒体輻射の問題を論じたりすることができる。なかでも黒体輻射の問題解決は量子力学の起こりとなる「光量子仮説」の誕生をうながした、物理学における歴史的一幕だ。これらの概念が、アインシュタインへの愛情と共に深く論じられている。田崎統計力学の本は、調和振動子や連成振動、マクスウェルの方程式の基本解など、学部2年生程度なら既知であろうことも丁寧に説明しているので、読みやすいといわれる所以もそこにあるのかもしれない。解析力学や電磁気学など、いわゆる古典的な研究対象も、決してコケにできないどころか、むしろ一層の重要性をもって我々に迫っているのだ。

3.さっさとⅡを読みます

 田崎統計力学がラノベであるという、手垢にまみれたような評判を僕は真面目に受け取るわけにはいかないが、読みやすかったのは間違いない。これは平衡統計力学の普遍性と適用範囲の広さから来ているのではないか、そして同様に、統計力学は未だ開拓途上であることの証左であるのではないか、そんなことを考えた。平衡統計力学の基礎的な部分のみを知りたい人は、第4章と第5章を読んでしまうだけで、ほぼ満足してしまうに違いない。要するに、問題を解決していく上で用意する基本的概念や法則の量が簡潔であり、少ないのだ。等重率の原理から始まり、カノニカルアンサンブルを導出し、さまざまに応用する。気が付くと熱力学と統計力学の結びつきなどの重要な結論に達している。ここではけっしてアクロバットを見せているわけではなく、論理展開がスムーズである。一連のよどみない議論は、必要な理論的基礎の量にもよるのだろうが、また書き手の長年にわたる講義経験によって洗練されたものでもあるのだろうと思った。もう一つ、特徴的だと思ったのは、夾雑物のない論理と並行して、田崎先生の物理学に対する自身の見方、歴代の物理学者に対する愛情が、節々で顔をのぞかせていることだ。自然を虚心坦懐に記述する物理学においてさえ、結局背後には生きた人間が存在している。本を通して、物理学における歴史というものが、一つの有機体となって見えるのだ。物理を現在学んでいる学生にとって、事実と同様、過去に自然科学と奮闘してきた人間の足跡をたどることは、今後の人生にとっても大きな指針となるに違いない。田崎先生の人生における、教える立場としての側面が十分に反映されている、そんな本だといっても決して過言ではないだろう。