田舎暮らしの平和と平凡
ここ数年、都会からの移住で田舎暮らしが流行ってる。
都会の雑踏に疲れて、自然に囲まれて、のんびりと…
皆そう憧れているようだ。
ところが、このわたし。
受け継いだ、と言えば聞こえは良いが、『私が守って行く』と約束したから相続した。
祖母の生まれ故郷であり、最期の場所。
しかも、ここは銀座のど真ん中のような田舎の一等地。
皆の憧れるような静かな田舎暮らしとは行かない。
どこにでもあるものなんです。
『銀座』ってね。
毎晩、飲み屋さんで賑わって、国道の主要道に面しているから大型トラックや車がバンバン通る。
大きい切り出したヒノキの丸太を積んだトレーラーが通ると、ドドドと家が揺れる。
ドナドナされる豚さんが何頭も積まれたトラックが通ると揺れる。
お陰で庭に置いてある物置がコンクリートに止めてあるにも関わらず、地面ごとズレて歪んでいるし、門扉の支柱もズレて閉まりが悪くなった。
振動ってスゴい力。
そんなこと気にしない人たち
田舎の人は、のんびりしてて素朴で良いよね
そんなセリフをよく聞くが、本当の意味を知らないで言ってるでしょ?
違うよ。
地面がズレて行ってるということは、いずれ崩れるという意味が解ってない。
自分の家がドーンと事故に遭わなきゃ分からない。
崩れても、何でだろう?だったり、仕方ないね、と状況に物申す知恵がない。
決して馬鹿にしているつもりはない。
ただ、都会ではそういった問題が起こらないように、幾らでも行政が予算を講じているから、万が一の時には市民も抗議するし、補償も受けられる。
しかし田舎は、議員も近しい誰かの身内。
行政職員も誰かの息子や娘。自分の身内。
行政に文句を言えば、誰かの身内を責めていることになる。
だから、口に出さない、出せない。
寄り合いで成り立ってるのが田舎
人口が少なく、毎年どんどん若い衆は職が無いから県外に出て行ってしまって戻って来ない。
相変わらず『年の功』とやらの年功序列社会で、年配者の時代錯誤に逆らえない風習があって、これからの新しいものの考え方なんか意見しようものなら、全員が全員、口を揃えて
『やめとけ』と言って潰す。
それでも気持ちの寄り合いで自分の ”社会” 的立場を脅かさないように生きる。
これが田舎暮らしの鉄則。
そうでないと、行政がやらないゴミ集積場の取りまとめの自治会にも入れて貰えず、ゴミも捨てられないのが現実。
家の前に置けば持ってって貰えるんじゃないんですよ?
しかもゴミ集積場使用料を年間3,000円払わないといけない。
一体そのお金どこに行ってるの?
知らないよね、都会の人。
ゴミなんか、決められた場所に出せば、市や区の環境事業所職員が持ってってくれると思ってるし、それが法的にも当たり前。
だけど、環境事業所や焼却施設のない地域は、隣接する市外県外まで棄てに行かなければならない。
それも税金で予算が組まれている筈なのに、自腹切ってやっている。
自治会に納めた使用料が充てられているとは聞いてないけどね。
それでも素朴だなあ、と思うこと
都会では考えられないが、老いも若きも男も女も(女の人は警戒心であんまりないかな)、皆『こんちわ!』と目が合えば、すれ違えば挨拶をしてくる。
見ず知らずでも『こんばんは!』
最初は「え?誰!?」と、いちいち驚いて居たが、それが小さい時から躾られて身に染み込んでいる。
ちょっとワルぶっている雰囲気のおじさんでも、『ちわっす!』
水道の委託された検針のおじさんも庭先で、ほんの少し語らい合っただけで気心を持って、帰る時には『○○さーん、またねー!』と下の名前を大きな声で言って門を出て行く。
田舎の人が素朴で、素直だなあと感じるのは、こういった姿だ。
それと、外であろうと、誰が見て居ようと、御礼を言う時に、
『有難うございました』
と、両手を両足の脇に揃えてピシッとした姿勢で、キチッと30度腰を曲げて、頭を下げる。
もう信じられないくらい、ビックリする。
60才や70才になろうかという、大の大人、大の男がですよ?
またね、のサヨウナラの挨拶ですら、酔っぱらっていても、
ピシッと、キチッと。
見習え。
田舎者とナメるな。
性根が腐ってないんです、何歳になっても。
スレてない。
だから私はここに居る
議員も行政もボーッとして、国と県が何とかしてくれるからと甘んじて、楯突いちゃダメと穏便に生きている。
私の性分じゃ許せないけれど、それは腹に閉まって。
なーんにもない、犬と二人暮らしのフツーの人の振りをして生活する。
車で10分くらい走ると、途端に雄大な山と一面に拡がる盆地の農地が見える。
というか、車で行かないと見えない。
ボーッとして、嗚呼気持ちいい。
買い物や通院の往復で見える景色に、つくづくと、
ここは平和だなあ
実感する飽きない3年目のわたし。