見出し画像

東山魁夷的風景。

4ヶ月ぶり位の投稿。
先日、豊田市美術館にて東山魁夷の唐招提寺障壁画展をやっているとの情報を聞き付け、早速拝観してきた。

唐招提寺修復中にその障壁画を持ってきてしまおう!という大胆な美術展と、ライトアップされて浮き出たまるで動いているかのような波や山から立ち上る靄の圧倒的なチカラ。

唐招提寺よりもずっと幻想的にエフェクトされて、コレはコレで修復が完了してしまったら見ることができなくなってしまうかなり貴重な体験だった。

その中でも壁一面に描かれた「山雲」は飛騨の山々からインスピレーションを得て描かれたとの事。

僕らにとっては当たり前の風景なんだけど、そこで立ち止まって脳裏に焼き付けたり、絵画にしたりしない…という事が、日本を代表する稀代の画家との大きな違いか…

東山魁夷的な風景はどこにでもある。
今日のように国民の8割近くが高性能のカメラを持っているなんて事が考えられなかった時代、人々の心はアナログのカメラのように、暗室でしっかりと記憶の中にその風景をとどめておく事が出来たのかもしれない。彼らはその風景を目にして心動かされ、目を閉じて心にその映像を焼き付ける。風景にその時の心の状態が乗り移ったのを心象風景というけれど、東山魁夷はまさにその心象風景を描く代表的な画家であった。

高性能なカメラを持ち、気が向いたらいつでもシャッターを押すことができる今日、それでも多くの人は、然るべき時に然るべきタイミングでシャッターを押す事が出来ない。

朝の通勤風景、風のない朝の水面に映る山々に気づきながら私たちはその風景を横目に通り過ぎて行く。
仮にシャッターを押せたとしても、新緑が水面に映る風景はスマートフォンのメモリにありのままに記憶されるだけで、そこには決して白馬が映ることはない…。

結局のところ、どんなにカメラや一瞬を撮影する機能が増えたところで、心に残る風景は増えることもなければ減ることもないのだろう。

シャッターを押しているんだけど、押していない。スマートフォンには残っているんだけど、ココロには残っていない。

要するに打席は増えても打率は増えない。

でも、そういう風景をスマートフォンに残して人と共有できるということはとても素晴らしいことでもある。

スマートフォンの中の写真が人々の目にさらされる時、突如としてそこに白馬が現れるかもしれない。

こんな風に東山魁夷的風景は時代にフィットしながらシェアされて行く。
ご本人がそれを望んでいたのかどうかはわからないけれど、時の流れが絵画の楽しみ方をより多様化して行くのは、やはりスゴイことだ。

それにしても、東京に住んでいるときは考えもしなかったけど、ほぼ毎日見ている山の風景が大好きな画家によってこんな風に壮大に描かれているのは、嬉しくもありショックでもある。

僕が寝ぼけ眼の早朝に、ポカーンと口を開けて見ている山の風景を、彼はココロに焼き付けていたのだ…と思うと、自分のアホさ加減が笑えてくるのです…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?