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継承する祭から学ぶこと。

飛騨に移住して2年目のまだ雪の残る春の夜に公民館に呼ばれ「君が今ココで”やる”と言ってくれたら、うちの金蔵獅子を復活させることができるんやが…」と、円座になった氏子総代や若社の皆様方から、ほぼ選択肢がひとつしかない返事を求められたのが今から19年前の話。

「ハイ」と答えてから5年間、獅子の後ろ役をやらせて頂き、その後仕事の関係で継続を断ったことにより、ウチの集落の金蔵獅子の歴史は再び途切れることになる。

それから随分と長い間、観光に関わる仕事に就いたこともあり、GWのど真ん中5月3日に執り行われる集落の祭には常に不参加で、それをキッカケに僕と集落との関わりも希薄になっていったが、僕がやめてから数年後に、少年が青年になったり、都会から戻ってきたりして再び金蔵獅子は復活を遂げていた。こんな風にして、高齢化や人口減少など環境が変わっても、祭はしっかりと、構成するプログラムをON/OFFさせながら、継承されていった。

そこにはIターンの僕には想像できないくらいディープな”集落のプライド”が生きているように感じられた。

令和を迎えて初の集落の例大祭が本日執り行われた。今朝初めて知ったのだが、今年は金蔵獅子の金蔵がデビュー戦だという。20歳の青年が、前任者の引越しにともないその役を受け継いだカタチだ。

彼の父親も歴代の金蔵を演じた一人。こういう継承は、僕のようなよそ者第三者から見ればとてもステキな話だが、実際はステキなんて、そんな浅いコトバで片付けられる様なものではないのだろう。

祭後の直会の席は、令和元年を飾った新しい金蔵獅子の話題でもちきりだった。
「まだまだ荒削りだが、のびしろがあって良い」
「仕事が忙しい中で、本当に一生懸命練習に参加してここまできた。まずはそこを褒めてあげてほしい」
「来年からは、若社だけではなく、歴代の演者が保存会としてコミットして盛り上げて行こう」

そんな話で盛り上がる中、19年前の僕の話がでてこんなことを言われた。

「あの時は、獅子を断る理由なんていくらでもあっただろうけど、今になって、あの時獅子を受けて良かったと思うだろ?みんなそうなんだよ。あの時断っていたら、きっと後悔していたよ。」

なんか、ずしーんときた。

まさに継承する側の主観であり、こういうそれぞれの思いの調和が継承を実現するんだろう。

この集落にきて20年。やっとコミットすることの意味が見えてきた気がする。

例大祭の最後の宮司の言葉が印象的だった。
「例大祭は神様にお願いをするのではなく、神様に楽しんでいただくための祭り。この日のためにしっかりと準備をして、舞や金蔵獅子も時間をかけて練習して、神様に喜んでいただけるように心を込めて祭りを執り行うのです」

ナルホド、祭の意味が改めて深く理解できる言葉でした。

生活の中にしっかりと神道の信仰が根付いているこの地域だからこそ、祭りを継承するという「型」を示すことによって、地域そのものが時代の変化に対応しながら継承されていく。
そのためのキーワードは「調和」であると思うのです。人口減少をはじめとするこれからの日本における大きな時代の変化を乗り越えるには「調和」なしではまず成り立たないのでしょう。

令和元年の例大祭は、まさに令和の英訳の如く
Beautiful Harmony を感じる、学びの多い祭でありました。

そして文化の継承が生活の中の一部となっている地域に住めることを誇りに思うのです。

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