見出し画像

不確かさの魔法

先日来社したメーカーさんから聞いた二つの話。
ある豪華客船でのお話。1ヶ月世界一周クルーズ的なラグジュアリーツアーがあった。超一流のシェフを乗せた豪華客船でのツアーは、そりゃもうお腹いっぱい、これ以上の美味しさはない…との満足感で帰港するだろうと誰もが思う。

ところで、超一流のシェフってなんだろう?
ここでいう超一流は、あらゆるコンディションに左右されずに、常に同じ味を再現できる技術をもった人という設定。

帰港した人に「1ヶ月間、さぞかし美味しい食事を楽しまれたのでしょうね?」と聞くと、その多くが「おいしくなかった」と答えたとの事。

一方、コレは最近の話。
香川県のある惣菜メーカー。おばちゃんらが井戸端会議をしながら、すべて目分量で惣菜を作る。見学した人は口々に「こんなので大丈夫なのか?」と言う。
でも、業績は右肩上がり。
所謂、おふくろの味、がウケているのだという…


この二つの話の間にあるのは、味の再現性の違い。前者はデジタル的(確かな再現性)で、後者はアナログ(不確かな再現性)的である。

おふくろの味ってなんだ?と考える。
僕の持論では、その家やおふくろの手に棲む微生物(バイキンではない)が作用して、どんなに味の方向性が変わっても、そのベースにある下味が変わらない。そのベースがまさにおふくろの味で、たとえ他の家で同じレシピを食べても、味は違ってくる…としている。

でも、これらの話を聞いてみると、おふくろの味が美味しい理由は、日々の目分量の不確かさなのかもしれないな…と思う。
いくら母親の手に宿る微生物が作用しても、毎日同じ味ではやがて飽きてしまう。
でも実際は前述の惣菜メーカーのおばちゃんたちのように目分量の不確かさがある。
「おふくろの味」という枠の中で、その不確かさは、誰にも触れられないまま、
「お母さんの作るおはぎはいつも美味い」という話になる。


そこに僕の持論が組み合わされれば、目分量の不確かさに、独自の微生物と深い母の愛情が加わり僕の中の「おふくろの味論」はとりあえずココに完成する。
これを、「不確かさの魔法」と呼ぶことにする。

話は少し変わるけれど、飲食店の本当のリピートは3回目の来店が目安…と僕は思っている。
味が良い事が前提として、美味しさに感動すれば人はもう一度来る(可能性が高い…)。でも、お店が常に同じ品質のモノを出す前提で考えた時、2回目の来店時の美味しさの感動が1回目を上回る事はない。つまりは感動はない。

3回目のリピートがある店は、たいてい、「次回はアレを食べたい!」という、選択できるいくつかのカードを持っているか、週替わりなどの期間限定メニューをもっている。もしくは、雰囲気がよかったり、サービスや気遣いが嬉しかったりする。

ナルホドナルホド。

コレって、先程の不確かさとリンクしている。
ちなみに、この不確かさを、確かなカタチで進めているのが、大手食品メーカーだ。
消費者には味が変わっていないように感じられるけれど、実際は気付かれないように、塩分や脂質、カロリーを減らしている。江戸時代から続く「ふりかけ」メーカーも、当時の味からしたらだいぶ変わっているようだけれど、食べている人は気付いていない。
正確に言えば、カラダは気付いているんだけれど、アタマが気付いていない。

コレっておふくろの味と同じ構造だ。
でも、コレは確かな不確かさだ…って、なんだかよく分からなくなってくるな…


ただ、確実に言えるのは、なんだか「おふくろの味」が食べたくなってきたなってコトです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?