見出し画像

コレクティブハウスがいまいち流行らないのはなぜ?

(前回の投稿で、共に暮らすコミュニティ的住まい方に興味のある居住者と、そうでない居住者との二極化の問題について書きましたが、居住者が読む可能性があると思い、公開するのをやめました。)

この「居住者の二極化」現象は、ラメールだけでなく、他のいろいろなコレクティブハウスでもありがちなことのようです。

コレクティブハウスあるある問題

今日ちょうど、市内にある他のコレクティブハウスに住んでいるという人と話をする機会があったのですが、聞いていたら、彼の住んでいるハウスでも同じように二極化が進み、もう今では、コミュニティ的暮らし方に興味がある人のほうが少数派になってしまい、ほとんど普通のマンションと同じになってしまったと言っていました。
廊下で合っても挨拶すらしない、ライングループは炎上して削除されてしまった、20人ぐらい住んでいるのに、共有スペースを使う人は3人ぐらいしかいない…当然、ごはんを一緒に食べたりすることもない。寂しいことです。

彼が言うには、開所してからしばらくは、管理会社もやる気があり「コレクティブハウス」として居住者募集をしていたが、だんだん人が集まらなくなってきたので、普通の賃貸物件として、街の大手不動産屋に募集を委託するようになっていった。そのため、集まってくるのはコレクティブな暮らしにはなんの関心もない人たちばかりになってしまった…とのこと。
こんなことが、いま様々な「コレクティブハウス」で起きているようなのです。

シェアハウスよりも個を重視して。でも孤立せず、ほどよくつながりを持って。となりに人のあたたかさがある暮らし。
理念としてはとても美しく、理想的な暮らしのように思えるけれど、いざ、箱を作ってみたけれど、入る人が思いの外少ない。
(なぜなのか…?!)

音頭とりを誰がする?

このことを、友人(彼女は、ちょうど1年ほど前にジモティーでラメールの居住者募集を見て声をかけてくれて以来の仲間です)にラインで話してみました。
友人「たしかに、同じ建物に住んでいていても、個の空間が確立されていると、集まる機会を誰かが積極的に作っていかないと、集まらなくなるよね」。

生活空間に他人がいて、何をするにも顔を合わせなくてはならないシェアハウスと違い、全部が自室の中で完結できてしまうコレクティブハウスの場合、シェアハウスよりも、他の人とコミュニケーションをとるハードルが一段階上がる。自力ではきっかけが作れない場合が多いので、誰かが音頭をとって、みんながコミュニケーションをできる機会をつくらないと、自然に、交流は消滅していってしまう。

この音頭取りを誰がやるのか、仕事でやるのか? 趣味でやるのか? 必然性がある人がやるのか…?
音頭とりをやる可能性がある人はどういう人かというと、 
1、必然性がある人・・・建物内での他の人とのコミュニケーションを自身が希求している人(私のような)。
2、趣味でやる人・・・シニアのサークルみたいな感じか。お金と時間に余裕があって、楽しみたい人。
3、仕事でやる人・・・管理会社など。

3の管理会社が、住人同士の交流を促進して、自社にメリットがあるか? というと、手間がかかるだけで、特になさそう。なので、管理会社は音頭とりを積極的にやりたがらないだろう。
1の、建物内で他人とのコミュニケーションをとる必然性がある個人や団体が自身で音頭を取るには、けっこうエネルギーがいるので、よほど差し迫って必然性がある人でない限り、やらない。

そして、必然性がある人ってどういう人かと考えると、
・単身で、外での人との交流が少なく寂しい(社会的に引きこもりがち)
・発達障害などがあり一人で生活することに不安がある
・シングルマザーで、子育てを誰かに手伝ってもらう必要がある
・家族があっても他の人との交流が好き

…というような属性の人がなんとなく頭に浮かぶけれども、前3者は、往々にして社会的弱者、経済的弱者であることが少なくない(全部がそうでは決してない、もしくは、それらを通り越して生活保護や年金で暮らしている場合も多い。)
こうした、お金もなく、生活していくこと自体がたいへんな人たちが、住まいを選び、自ら音頭をとってみんなの交流の機会を作っていくというのは、そう簡単なことではない。…(もちろん、お金があって生活に余裕がある人にとっても、音頭とりは楽なことではないはず。)

目指すは昭和の公営住宅?!

そもそも、音頭とりをする以前に、まず、自分と同じ思いをもつ人たちを集めて住むこと自体が実現困難です。「そんなふうに住めたらいいなぁ」と言っている人はすごく多いけれど、たいがい「いいなぁ…」で終わってしまっている気がします。
どこでもいつでも好きなように旅するように居住できたらいいのかもしれないけれど、現実には、引越しには多額の初期費用がかかったり、契約期間の縛りがあったりして、いったん住居を決めると身軽に動けない。空家はたくさんあるけれど、普通の人には改修のノウハウがない、頼むと莫大な費用がかかる。そういう状況も、気に入った人同士で建物ごと占拠して住むようなことをやりづらくしている感じがします。

ユダヤ教コミュニティとか、ムスリム社会のように、比較的大きなコミュニティが地域内にあって「あの場所へいったらこういうコミュニティがある」ということが誰にも周知されていれば、そのコミュニティの理念に共感する人がその地域に引っ越してくるということが考えられるけれど、日本において、コミュニティ的住まい方を実践している人はごく少数で、まだまだ一般的な住まい方とは程遠い。

ところで、昭和時代の公営住宅に住んでいたことがあるという人が、「コミュニティとか横文字使っているけど、それって昔の公営住宅と同じだよね」と言います。住宅ごとに自治会があり、自分たちで運営をしたり、コミュニケーションをしたりして、それなりに和気藹々と暮らしていたそうなのです。
そんな風景が、日本の各地で当たり前のように見られたといいます。昔、できたことなら今またできてもおかしくないのに、ニーズが高まっているにもかかわらず、実現しにくい…昔と違って自治会や地域のつながりが衰退している今、活気ある昔の公営住宅のような住宅を再現するには、また別の仕掛けがいるに違いない…
国や地方自治体は、「自分たちで助け合いなさい」と言っているわりに、助け合いの住まいのバックアップをする気配はあまりない。今後、なにか支援策が打ち出されるとよいけれど…

考えていても埒が明かないので、分析はこのぐらいにしておきます。

今月末には、共に暮らす仲間が一人、退去してしまいます。コミュニティ的暮らしの仲間はこれで5人ほどになり、その他の一般の居住者は7人ほど。形勢不利にならないうちに、何か手を打てるだろうか。…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?