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藤本タツキ「ルックバック」を書いてあることから読んだ――投壜通信 なかたつ編

(この記事は、2021年7月24日に百均となかたつがTwitCasting上で行った読み合いのまとめ記事になります。以下が終盤の様子です)
https://www.youtube.com/watch?v=kAZzoPzp_cU

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)
https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355

BGM:The Police - Message in a bottle
https://www.youtube.com/watch?v=MbXWrmQW-OE

はじめに

 公開以来、TwitterのTL上で、この漫画についての感想を目にすることがしばしばあった。(いつか読もうかな)としか思っていなかったので、きっと読まないこともありえたのだが、百均に「読み合いしましょう」ときっかけをもらったから読んだ。
 おそらく様々な考察が様々な場所で展開されているだろうが、私たちなりに、腑に落ちた一つの読みにたどり着いたので、それについてまとめたい。

そもそも「読む」って何だろう

 私的な話になるが、昔から国語のテストが苦手だった。その苦手な理由がわかっていれば改善できたが、その理由が結局わからずじまいだったから、国語のテストの点数は悪いままだった。それに、親から「お前は感情がない」と時たま言われることがあり、他人の気持ちがわからないやつに、作者や登場人物が何を考えているかなんてわかるはずもなかった。
 父親の理系脳をそのまま引き継いだ私は、理系の学部に進めばよかったのだが、とある理由で文学部に入ってから、何となく様々な本を読むようになり、今では、こうやって読み合いなどもしている。
 そもそも他人の気持ちなんて、簡単にわかるものではない。わかったとしても、他人の経験≒エピソードを聞いて、自分の経験と照らし合わせ、共通点や相違点をあぶりだすことはできても、全くの他者になれるわけではない。じゃあ、「読む」ってそもそも無謀だし、何のためにするのか。他者になれるわけではないけれど、他者に近づいたり、自らの輪郭をあぶりだしたりすることはできる。
 そして、私たちの「読み合い」で重視しているのは、「腑に落ちる」ということ。正解があるわけではない。正解を探したり、求めたりしているわけではない。そもそも「読み合い」の段階で、違う「読み」をぶつけあって、納得できないところは納得できないままだけど、擦り合わせて、「読み」を修正することはできる。そのことは、普段の生活における意見のぶつかり合いにおいても類似していて、とある出来事に対する意見というのもまた「読み」の表明と言えるのではないだろうか。
 前段が長くなってしまったが、つまり、この考察は、百均となかたつが二人が「読み」を擦り合わせた結果として生まれた一つの考察であり、正解ではなく、「腑に落ちた」「読み」であるということ。

あらすじ


 あらすじに関しては、なかたつが一読目に読みながらまとめたものがあるので転載する。詳しくは、原作を読んでください。



京本との出会い
・誰かが(現在)見ている風景≒京本が(かつて)見ていた風景
・他者との比較、評価によって動機づけられた勉強
「中学で絵描いてたらさ…… オタクだと思われてキモがられちゃうよ…?」

中学入る前に1度絵をやめる

京本との出会い2
卒業証書を渡しに京本の部屋へ行く(1度目)
「私っ!!藤野先生のファンです!!サインください!!」
感情がストレート
「みたい」の繰り返し
→中学入って再開
(一緒に暮らしてる?一緒に漫画を描いている?)

準入選する
≒評価される
→外へ遊びに行く
京本「私…人が怖くなって学校に行けなくなっちゃったから……」

連載の話
それ以前に読み切り7本載っていることもわかる
京本「ごめん私…美術の大学に行きたい…から だから…連載手伝えない……」
藤野「私についてくればさっ 全部上手くいくんだよ?」
京本「私…藤野ちゃんに頼らないで… 一人の力で生きてみたいの…」
  「もっと絵… 上手くなりたいもん…」
→藤野が一人で連載を開始

山形の美術大工で事件
男が刃物を振り回す
12人死亡3人重傷

回想シーン
冬のコンビニで彼女らが準入選を確認した際と思われる
京本「じゃあ私ももっと絵ウマくなるね!藤野ちゃんみたいに!」

藤野連載を休載する

京本の葬儀
京本の部屋に行く(2度目)
「京本死んだの あれ? 私のせいじゃん……」
10
パラレルワールド
藤野と京本の出会い
11
パラレルワールド
美術大学での京本
犯人との出会い
→助ける藤野との出会い(1度目)
12
現実世界に戻る藤野
京本が描いた4コマのタイトル「背中を見て」
13
回想シーン
「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

何をキーワードとするのか

 さて、いよいよここからが本題。
 様々なキーワード(≒テーマ)を設定して考察することができるだろう。それは読み手が各々恣意的に設定できるものであり、キーワードを設定するということは、作品にフォーカスをあてて深く読むことができる。ただ、その反面見落とされる部分も生じてしまうのだが、キーワードを様々設けることにより、相互補完したり、反発したりなど、読みを整理するうえでのあくまで一つの手段としてキーワードを設定する。
 あなただったら「ルックバック」におけるキーワードを何にしますか?
 友情、師弟愛、書くということ、犯罪、漫画、現在・過去・未来、オマージュ、背中、仕事、都会と田舎、夢、憧れ、他者からの評価、などなど
 ぱっと思いつくことで並べてみた。
 では、私たちが設定するキーワードを発表する。
 それは「投壜通信」
 ?????????????
 なんですか、それは。

 それでは、ここで、一つの文章を引用する。

 詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に――おそらくは心の岸辺に――流れつくという(かならずしもいつも期待にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです――何かをめざすものです。
 何をめざすのでしょう? 何かひらかれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実をめざしているのです。
 そのような現実こそが詩の関心事、とわたしは思います。
「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」
(『パウル・ツェラン詩文集』パウル・ツェラン著、飯吉光夫訳、白水社、二〇一二年より)

参考:ツェラン読書会 #2 - 百均 (@bungoku_was)
https://twitcasting.tv/bungoku_was/movie/652365801
以前、この文章を書いたツェランについても百均となかたつで読み合いをした時のものです。この文章については45分頃から話しています。
前後の話も参考に
ツェラン読書会 #1 - 百均 (@bungoku_was) 
https://twitcasting.tv/bungoku_was/movie/652357984
ツェラン読書会 #3 - 百均 (@bungoku_was) 
https://twitcasting.tv/bungoku_was/movie/652373821

投壜通信とは

 簡単に言えば、壜の中に手紙を詰めて、海の中に放り、砂浜に打ち上げられて、誰かに読まれるかどうかもわからないということ。つまり、意図していない/されていない手紙。
 一見ロマンチックにも思えるかもしれないこの行為だが、この手紙には「書く」と「読む」の2つの側面がある。

・投壜通信における「書く」
 手紙とは通常、宛て先がある。つまり、送りたい相手がいる。そして、送りたい相手がいるということは、その相手に対して送りたい言葉≒内容がある。つまりは、閉じられた関係性の証明になり得るのだが、そもそも手紙は開示されるものではないから、手紙を送り合う関係性というのはやはり証明できない。
 投壜通信における手紙には、宛て先があるかもしれないし、ないかもしれない。荒れた波にもまれた船の上で、もしかしたら最後の手紙になるかもしれないからと言って、大事な人を想って書かれるかもしれない。何か決別したい過去があって、海で一人、その過去についての手紙を放り投げるために書かれるかもしれない。タイムボックスのように、将来の自分に届けるために書かれるかもしれない。いずれにしても、「書き手」にとってその手紙が想定内外の相手に届く保証はされていないということが、投壜通信の「書く」につきまとう特性であるだろう。

・投壜通信における「読む」
 その手紙が「読み手」宛に届けられたものではない可能性が高いということ。砂浜で不意に拾ったものは、初めて触れる言語で書かれているかもしれないし、文字がかすれているかもしれない、ましてや、誰かに宛てたラブレターかもしれないし、助けを求めるSOSかもしれない。それに対して、「読み手」は応えることができるのだろうか。必ずしも現在において書かれているわけではなく、応答不可能なものがほとんどになるように思える。

 投壜通信における「書く」と「読む」について考えてみて、その特性は、宛て先の不一致が挙げられるだろうが、余計なものをそぎ落とした「書く」と「読む」の原型だと言えるのではないだろうか。
 「書き手」にとっては、宛て先に届けられるかどうか保証されていない中でもただ「書く」という想いがあるからこそ形にするのであり、「読み手」にとっては、「書き手」の背景を知らない中でただ届けられた手紙を「読む」ということだけが手段として残されている。


本題:ルックバックにおける投壜通信


(数字はサイト内の「移動」を使用した際のページ数)
藤野から京本への手紙(34)
 藤野が京本へ卒業証書を届けに行った場面。声をかけても部屋から出ない京本に対して、藤野がとった行動は、京本の部屋の前で即興の4コマ漫画を描くということ。学級新聞でしかお互いの存在及び漫画を認識していなかったが、この場面で藤野から京本へ直接漫画が手渡される。しかし、この手渡しは意図していなかったもので、不意なものである。それは藤野が「なにしてんだ私……」と述べているように、自らの行いへの理解がなされていないことからも、漫画を描いたことの意味をとらえきれていないことがわかる。そのため、この漫画が京本の目に入ることも意図されていなかったと言えるだろう。
 しかし、このことがあったからこそ、京本は部屋を出ることができ、直接的な対面を通して、藤野と京本との共同作業が始まっていく。
 京本は藤野の漫画に対して憧れを抱いており、その出会いは学級新聞に載っている漫画があるからこそだが、そもそも学級新聞の漫画自体、京本へ届けたいという意図とは別に京本へ届いてしまったものである。意図していない手紙という点で、この学級新聞は投壜通信と言えるだろう。

藤野から藤野への手紙(92)
 上記の場面は、藤野が初めて京本の部屋を訪れたシーンであり、この作品内で描かれている中では、藤野が二回目(最後)に京本の部屋を訪れたシーンがこの場面である。ここで、藤野は京本に届いてしまったあの4コマ漫画を目にする。これは、過去の藤野から現在の藤野に対して、不意に届いてしまった手紙になっている。そのことで藤野は「私のせいだ……」と自責の念を抱く。その結果、藤野は様々な出来事のきっかけとなった4コマ漫画を手で破る(96)。ここからパラレルワールドが始まる。

京本から藤野への手紙(124-128)
 パラレルワールド内の京本が描いた4コマ漫画が藤野のもとに届く。時間も空間も違う届くはずのない手紙が届くということ、これもまた投壜通信と言えるのではないだろうか。ここから藤野は初めて京本の部屋に足を踏み入れる。そこで、藤野が一人ではじめた漫画の単行本や藤野が過去にサインした洋服が飾ってあることを藤野は目にする。これもまた、京本が手紙として形にしなかったものの、想いが形になっているものとして、意図せず、京本の想いが藤野に届くシーンである。

犯人(88,110-112)
 「誰でもよかった」という犯人の想いが、パラレルワールド内の京本に届いてしまった場面。これもまた意図しないもの、宛て先が不一致なものとして届けられてしまうことがあるということ。


まとめ――ツェランの言葉
 

 意図しなかったものが相手に届くということ、もしくは、意図されてなかったものが自分に届くということ。それがツェランの言葉と照らし合わせると「何かをめざす」ということ。
 そして、その「何か」というのが「語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実」であるとツェランは言う。
 何かを描く/書くということは、目に見える形にするということ。他者に読まれることを想定されていない日記であったとしても、目に見える形になり、現在の自分が過去の私を見返すことがあり、また、偉人ともなれば、日記が文学館に飾られて読まれることもある。想いは胸にしまっておくままで、目に見える形にしないという手段もあるのだが、描く/書く以上は、時空を超えた誰か=「あなた」に届けられる/語りかけられる可能性を秘めている。ツェランは詩について述べていたが、ルックバックにおいては漫画、こうした特定のジャンルに限らず、ハイカルチャー/サブカルチャー問わず、何かを表現するということ自体に、意図しない宛て先に表現が届くということ、意図しない宛て先から表現が届けられるということはあるのではないだろうか。
 この文章によって、意図しない表現には注意しましょうね、と警鐘を鳴らすこともできるし、いやいや、そういう主張のためじゃなくて、とにかく表現サイコー!と主張することもできるが、この文章で書いていることに倣うのならば、この文章自体もまた投壜通信なのだから、私たちの意図などどのように届けられるか、それは届けられるまでわからない。
 
 もし敢えて私が述べることがあるとするならば、本屋やネットで数多ある作品の中から私に届けられた数少ない作品によって心動かされることはあるし、私も作品を書いている以上、見知らぬ誰かにそうして作品が届いていることがあるのかもしれない。そもそも投壜通信を見ても見知らぬふりもできるが、感動した作品を胸にしまっておくこともできるし、拾った壜に詰められた手紙を他の誰かにも知ってほしいからともう一度海へ放るように、誰かへ紹介することもできる。
 希望でも、ロマンチックでもなく、「語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実」というツェランの言葉を信じて、こうした活動を続けていこうと思いましたですね~。

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