「星(わたし)に願いを」(前編)




こつこつ、と音がした。


ベッドに腰掛けて、音楽ラジオを流し聞きしていたリコは反射的に音のした方向へ顔を向ける。
そちらは、窓だ。
もちろんなんの変哲もない。
気のせいかな、と思うともう一度音が鳴った。

「誰かいるの?」

問いかけて、リコはあれ、と首をひねる。
夜も深い、こんな時間に窓を叩くのは誰だろう――いや、そもそも。

リコの部屋は2階だ。

庭に幾つか木はあれど、窓に直接繋がるような場所には無かったはず。
なら、なら、窓を叩くということはそもそもあり得ないということになる。
ラジオから流れていた音楽がすうっと遠くなり、たちまち心臓がうるさくなり始めた。
いつの間にかうとうとしていたのもすっかり覚め、今や窓の方を息を殺してじっと見つめるばかりである。

3秒ほどの静寂を挟んで、しかし、素っ頓狂な声が耳に飛び込んできた。

「あ、よかった。起きてたー」

「……へ?」

拍子抜けしたことに、閉まった窓越しに聞こえたのはどこか間の抜けた、少女の声だった。

*****

「ええっと、良ければ中に入れて欲しいナーなんて」

リコが黙りでいたからか、窓の外の少女は戸惑ったようにそう言うと今度はリズミカルにここん、と窓を叩いた。
リコはなんだか申しわけなくなって、いそいそと窓に近づく。
勝手知ったる自分の部屋だ。
もう、どこに何があるかははっきりと体が覚えている。

「はい」

からから、と窓を開く。
夜風が吹き込んで少し肌寒い。

「えへへ、おじゃましまーす」

わずかに衣擦れの音がして、少女が部屋に入ったのがわかった。
リコは窓を閉めながら、おそらく横にいるだろう彼女に声をかける。

「窓の鍵、開いていたわ。入ろうと思えば入れたでしょう」

「たはは……前に勝手に入ってそりゃあ驚かれちゃったからね、それ以来気をつけてるの」

それを聞き、リコはそれもそうだ、と得心する。
夜中に突然窓が開いて何者かが入ってきたら、誰だってパニックになるだろう。
いや、そもそも、窓から訪れるということが既におかしいのだ。
用があるなら昼間の内に、戸を叩けばよいのだから。

「前にって、あなた、そうしょっちゅう人の家の窓を叩いているの? とんだ困ったさんだわ」

「違う、違う。私は困ったさんじゃなくて、流れ星のほたるだよ」

「そういうことを言っているんじゃなくて」

「そうだ! 君の名前を教えてよ。君じゃあちょっと味気ないでしょ?」

「あなたねえ」

「あなたじゃなくて、ほたるって呼んでほしいなー」

「……ほたるったら」

「えへへ」

リコは、不思議な子だなあと思う。
ほたると名乗った彼女は、そんなに歳の変わらないような気もするし、いくつか年下のような気も、或いはずっと年上の人に上手くあしらわれているような気もする。

「私はリコ。なんでもない、街外れの医者の一人娘。この通りフォックスの血が濃いの」

そう言って、耳をぴこぴこと動かしてみせる。
リコは全身が細く柔らかい毛並みに覆われており、ネグリジェの隙間から顔を出す、体の半分ほどはある大きな尻尾が背から覗いている。

「リコ、リコね。いいなあ、かわいい響き! それにモフモフ! お医者さんなんだ」

尻尾に暖かい感触がして、ほたるが抱き着いているのがわかった。
くすぐったい感覚に、ゆらゆらと尾を揺らす。

「ええ、パパがね。すごいの、なんだって治してしまうんだわ。玄関の方から泣き声がしたって、帰る頃にはきちんと『ありがとう』って聞こえてくるの」

「それはすごいや! 誰だって笑顔が一番だもんね」

えへへ、とほたるが笑う。
それがなんだか嬉しくて、リコもつられて笑った。
けれど、少しずつ、リコの表情から色が失われていく。

「……でも、駄目なの」

残ったのは、諦めが形をとったような微笑み。

「だめ?」

リコは、思わず服の裾を握りしめる。
ほたるがこちらをのぞき込むのが気配でわかった。

衣擦れの音。
さらさらと流れる髪の音。
微かな息遣い、やさしい匂い。

リコの得られる情報には、決定的に欠落しているものがある。

「全盲なのよ、生まれつき。パパが治せない唯一の病気――それが、私」

もう随分と開いていない目を、まぶたの上からそっと撫でた。
リコには光の明暗もわからない。
自分の姿も触った感覚でしか知らないし、危ないからと、外はおろか部屋を出たことすら数えるほどしかないのだ。

「目が、そっか……だからリコは」

ほたるはそう小さく呟いて、そのまま何も言わなくなった。
口を閉じられてしまうと、リコにはもう、彼女が何を考えているのか分からなくなってしまう。
考えごとをしているのか、ぼんやりと外を見ているのか、いや、もしかしたら、パパの言う通りなら。

目の見えない自分のことを、気味悪く思ったのかもしれない。

私にはやっぱり、パパしかいない。
リコはぼんやりとそう思う。

ママはまだリコが言葉も知らない内に事故に遭い、そのまま死んでしまったのだと、パパから聞いていた。
だから、姿も声も暖かさも、何一つママのことは覚えていない。
外のことも知らないから、友達も、いない。
窓の外から楽しい声を聞くばかりだ。

「ねえ、ほたる」

どうせ、このまま行ってしまうのなら。
駄目で元々、言ってみるだけなら、きっと大丈夫。

「私と友達になって?」

しん、と部屋が静かになった気がした。
相変わらずラジオから音楽は流れ続けていたけれど、それでも静寂が耳に痛かった。
全部夢だったのかもしれない。
そう考えたときふわりと優しい香りが広がった。

「勿論だよ、リコ。きっと私はそのために、君に会いに来たんだと思う」

腰に回された両腕に力がこもる。
その暖かい感触に、夢じゃない、と確信した。

「リコ?」

「ありがとう、ありがとう……ほたる」

頬を、つ、と熱いものが流れていた。
一滴こぼれてしまうとそれはなかなか止まらなくて、ほたるが何も言わずに拭ってくれるのがありがたかった。
夢じゃないとわかっているのに、夢みたい。
リコの口元は笑っていた。

夜が、明けていく。

*****

気が付いたら朝になっていて、頬には突っ張るような感触で、涙の跡が残っていた。
リコはぼうっとした頭で窓に向かうと当然のように閉じていて、拍子抜けする。
少し開くと朝の澄んだ空気がすうっと入り込んで、肌を刺した。

「あれ?」

こつん、と足に当たる物があった。
しゃがみこみ手探りで拾い上げると、ソレは大小様々に幾つかあり、両手にようやく収まりきる量がぱらぱらと落ちていた。
いや、置いてあったのか。
リコはきっとほたるが置いていったのだと思い直して、机の上に運ぶ。

ひとつひとつをじっくり触ると金平糖のような形をしているのがわかった。
ほのかに暖かいので、もしかしたら発光しているのかもしれない。
ほたるの置き土産だと思うとなんだか心がぽかぽかするようで、自然と歌を口ずさむ。

リコは歌が好きだ。
色々な音を聴くことはもともと好きだったけれど、あるとき口ずさんでからはますます歌が好きになった。
最近では窓を開けて、風を受けながら歌うのが日中の日課になっている。

そうして机の引き出しから空き瓶を探し出し、金平糖のようなそれらを入れ込むと枕の横に置いた。
枕の下にものを入れて眠るとそれに関連した夢を見ることができる、と聞いたことがある。
下に入れるには瓶は少々大きすぎたが、今夜も来てくれるようにという願掛けだ。

と、部屋にノックの音が響いた。

「はあい」

リコが返事をすると、擦れるような音をたててドアが開く。

「おはよう」

「おはよう、パパ」

かたん、という音。
机の上におぼんに乗せられた朝食が置かれたのだ。
次いで鳴ったパチ、という音は部屋の電気を点けた音だろう。
朝点けて、夜消す。
部屋の明かりはリコではなくパパが管理しているのだ。
昨夜ほたると話している間、電気はずっと消えたままだったに違いない。

そこでリコはふと疑問に思う。
ほたるが明かりをつけている様子はなかった。
はて、彼女はどうやってリコの姿を視認していたのだろう?

心の中で首をひねるリコの意識を、パパの声が引き戻す。

「今日は少し遠くへ行ってくる。都の方で流行り病が広がっているらしいから、調べにね」

「パパは大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。もう既に大体の見当は付いているんだ、薬だって持ってるさ」

「そう。なら良かったわ」

「それで、だ。リコには悪いが、昼は机の上に、朝食と一緒に置いておくから鐘がなったらお食べ」

「うん」

「夕飯はいつもより遅くなるけど我慢できるか?」

「大丈夫よ、パパ」

「そうか、そうか。リコは本当にいい子で助かるよ。それじゃあ」

「行ってらっしゃい、パパ」

再び擦れるような音がして、扉が閉まる。
机の方へ手を伸ばすと皿が二つ並んでいた。
いつもの通り三つほどパンが乗っている方が朝食だろう。
リコは三つの内一つを両手で持ち、齧り付く。
微かな咀嚼音とパン独特の甘い香りがわずかに部屋に広がって、どこか虚しくなった。

窓の外から、子ども達のはしゃぐ声が聞こえてくる。
それが、リコにはひたすら遠い場所から響いてくるように感じられた。
今の生活は寂しくないといえば嘘になる。
けれど、寂しいと口に出すほどの勇気をリコは持っていなかったのだ。

「おいしそうだね」

つと、すぐ後ろで声がした。

*****

「ほたる?」

「そそ、おはよーリコ!」

声の方へ手を伸ばすと、ふわりと優しい感触。
セーターだろうか。
夜に比べ冴えた頭で確認すると、柔らかく暖かい、けれどあまり触れたことのない感覚だと気付く。

「くすぐったいなあ、もう」

ほたるがくすくすと笑い、ごめんね、とリコもまた同じように笑った。

「ほたるは朝にも遊びに来てくれるのね」

「最近の流れ星は働き者だからね」

「あら、それ自分で言っちゃうの?」

「へへへ」

袖を探って手を握り、ゆらす。
それだけでなんとなく楽しくなる。
目の前に誰かがいて、自分と話をしている――それがもうリコには新鮮だった。

ただ、その正体があまりにもわからない。

「ねえ」

「うん?」

「ほたるは何者なの? そもそもどんな姿をしてるのかしら」

「私かあ」

リコは、うーん、と唸るほたるの言葉をじっと待った。
リコは獣人であるため全身が柔らかな毛で覆われているのだが、どうやら彼女の場合そうではなさそうだ。
少なくとも頭に獣人の特徴である耳がない。

「ええとね、まず髪は短いの。肩ぐらいで、ぴょこぴょこはねてる」

「うん」

「あとはもこもこした服で、しゃかしゃかしたスカートで、ああ! 頬に星が付いてるよ」

しまった。
全然わからない。
リコは胸中で頭を抱えた。

「なるほどね」

適当に相槌を打ってごまかすと、ほたるはリコの頭を撫でながら、歌うように続ける。

「リコは可愛いなあ。ちっちゃくて、さらさらで、みんなの人気者でしょ」

く、と急に息苦しくなり、リコは戸惑った。
けれど、すぐに気付く。
『みんな』という言葉にどきりとしたのだ。

「……そんなことない。私、友達いないもの」

「でも、下のお庭にたくさん遊びに来てるよ?」

「話したことは一度だってないわ。私、あの子たちの名前も知らない」

胸が苦しくなる。
けれど、これが現実だ。

自分はずっとひとりぽっちで、世界はこの部屋ひとつきり。
窓の外はいつだって遠い遠い場所。

「じゃあ、今からなればいいんだ! さ、さ、下に降りよう、皆がお昼に帰っちゃう前にさ」

リコは首を横に振る。

「駄目よ。目の見えない子は仲間に入れないの」

突然影が差すようにほたるが言葉に詰まるのを、リコは察した。
それでも努めて明るく、雲行きの怪しくなってきた会話に気付かないように、ほたるはどうして、と聞き返す。

「みんなと違うから、いじめられてしまうってパパが言っていたわ」

今度こそ、部屋の中に沈黙が降りた。

しかし、リコは知っているのだ。
パパが何度も何度もしてくれたお話で、 違うことは恐ろしいことだと、 自分はこの部屋にこそいるべきなのだと。
みんなは「同じ」が好きで「同じじゃない」のは大嫌いなのだ。

けれど、知っていることとその本心が、必ずしも一致するとは限らない。

「本当はね、気になるの」

リコが例の諦めたような微笑みを浮かべて口を開くと、衣連れの音でほたるがはっとしてこちらを見るのがわかった。
一度だって口にしてこなかった本心。
なぜだか、ほたるには言える気がする。

「窓の外から聞こえる笑い声。みんなの、弾むような足音。……私もね、あの中に入りたい。こんなこといったらパパを困らせちゃうな」

リコはそう言って頬をかいた。

「ねえ、リコ」

「なあに?」

ほたるはその手を取ってそっと包み込むようにする。
彼女の暖かさが伝わってくる。

「私ね、少しだけ不思議な力があるの」

「ちから?」

「うん」

不思議な力。
ラジオから流れる音楽に、いつだかそんな歌詞があったな、とリコは思う。

――夕暮れ色したあの街も、君が色を塗り替える
――不思議な力で、その笑顔で、みんなが『幸せ』思い出す

「リコは私に、何者かって聞いたよね」

「ええ」

「本当はね、私自身もはっきりわかっちゃいないんだ。それでもひたすら旅してる」

「流れ星として?」

うん、とほたるは力なく返す。
顔に浮かんでいるのは微笑みなのか、諦めなのか、その声だけでは判別がつかない。

「私には流れ星と同じ……いいや、流れ星の代表として、皆の願いを叶える力があるから」

「それはすごいわね」

軽くあしらうつもりでそう言ったのに、ほたるの真剣な語調は変わらない。
リコは、自身が心のどこかで焦っているのに気付いていた。


「だから、だからね。もしもリコが皆と一緒に遊びたいなら、そのために目が見えない現実を変えたいのなら、私はきっと力になれる」


諭すように言うその言葉の意味を理解したとき、リコは心臓が動くのをやめたような心地になった。

「リコの世界を変えられる」

重ねて言うほたるに、今度こそはっきりと、リコは恐怖した。
自分の世界を変えられる。
それはどんなに―――恐ろしいことか。

「イヤよ」

絞り出した声は震えていた。

「いや、駄目よ。ダメなの」

「リコ……」

「帰って!」

思わず叫んでいた。
怖がるようにほたるの手が離れたのに、ずきんと心が痛くなる。

「……ごめんね。でも、だめなの。だめよ、それは。帰って、今は、一人にさせて」

へなへなと座り込む。
一瞬風が吹き込んで、からからと音がして、部屋の中は無音になった。

お昼ご飯はとても、食べる気がしなかった。

*****

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