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プロ1年目

プロ1年目の話をしたいと思います。

bjリーグ初年度、僕が入団した東京アパッチ(現在チームは消滅)は2人の選手をドラフトしました。
実は僕もドラフトされる予定だったんですが、当時僕は3位で指名をされる予定でした。
僕の中では3位で指名されるくらいなら、指名されなくていいと思い、ドラフト会場に行きませんでした。(絶対にやったらダメなやつ)

未だに覚えていますが、リーグ関係者からドラフト当日に電話が来たのを覚えています。

リーグ関係者「会場には着かれてますか?」

僕「会場には行きません。」

今思えば本当に有り得ない事です。

何故ドラフト会場に行かなかったのか?
単純にドラフトの順位が気に入らなかった。
誤解がないように言いますが、ドラフトされた2人とは仲は良かったです。
もっと言うと、チームメイトになる前からよく遊んでいたし、一緒にバスケットもしていました!
逆に、仲がいいので負けたくない気持ちもありましたし、自分の方がいい選手だと自負もありました。

このシーズンは、この評価をしたチームを絶対に見返してやろうと心に決めていました。

今に見てろよ。

当時ヘッドコーチだったジョー・ブライアントはドラフト順位の件も知っていたかはわかりません。
とにかく毎日の練習は、僕にとってまさに戦場でした。
彼らよりもいい選手だと、コーチやチームメイトに納得させる事ばかり考えていました。

チームメイトには、当時AND1のミックステープが日本でめちゃくちゃ流行っていたいたんですが、そのAND1の選手のジョン"ヘリコプター"ハンフリーや、あのNBAのレジェンド、スコッティ・ピッペンの甥っ子のウィリアム・ピッペンもいました。


とにかく個性だらけのチームの中で、
チームイベントも僕は雑魚キャラ扱い。これには耐えられなかったですね。
もちろんチーム的にはドラフト1.2や、ジョンやピッペン、ジョーを前面に前に出す事は当たり前の事なんですが、
若かった僕は、頭ではわかっていても、納得いっていない態度は周りの人も気も使うレベルだったと思います。

いよいよシーズンが始まるとドラフト2人はスタメン。

僕は控えメンバーでした。

めちゃくちゃ悔しかった事を覚えています。
スタートに出る事だけが見返した結果ではありませんが、あの当時の僕にはスタメンで出る事は重要な事でした。
こうなったらコートで結果を出すしかない。
ただそう上手くは行きませんでした。
スタートで出ている2人よりも確実に僕のパフォーマンスは良くなかった。

原因は、日本で"みんなでやろう!"(←このニュアンスわかります?)的なバスケットを習ってきた僕にはコートで自分を表現する事がとても下手だったからです。
外国人と初めて長いシーズンを一緒にする事や、あのチームはアメリカでバスケットしているような雰囲気のチームで、外国人慣れしていない僕は、かなり遠慮もしていました。
あとは単純に下手だったし、ストリートで3年近くやっていた事で5on5が下手くそになってた事も原因ですし、上手くプレイ出来なかった最大の要因はフィジカルですね。
とにかくコンタクトのあるプレイが全く通用しなかったんです。
それもそのはず、プロ1年目は60キロでしたから、、、(アマチュアレベル)

ジョーには「チームで1番シュートが上手いお前が何故積極的にシュートにいかないんだ!」とシーズン中に何度も言われました。
今ならジョーの言っている事はわかりますが、当時ジョーが求めていた事は僕が育ってきたバスケットの環境では、わがままの部類のプレイ。
今までの自分のバスケットの常識といつも戦っていました。(これは2シーズン目の途中まで続きました。)

シーズン序盤のある日、チームメイトと一緒に練習会場に行った時、バスケットをやっている子供達が来て、「サイン下さい!」と群がってきました。

僕以外の選手に。

僕は選手として見られていない感じでした。
これは本当にかなり傷つきました。
子供は正直です。単純に僕より他の選手が単純にイケてるという証拠です。
自分の中の評価は違くても、子供達の評価を目の当たりにし、あの時の悔しさや、情けなさは今でもはっきり覚えています。

今に見てろよ。(レベルMAX)

この時最大のモチベーションをもらい、今まで以上に毎日毎日、自分自身とチームメイトと戦っていました。(ジョーの練習も競争心を煽る練習が多い事は僕にとってかなりプラスでした。)

シーズンも中盤に差し掛かるくらいにはリーグの試合にも慣れてきて、プレイタイムも増えました。
この頃にはもう、周りを見返してやる気持ちよりも、次の壁にブチ当たりました。試合中に自分がどうプレイすればいいのかわからず、弱い自分や日本のバスケットの常識かぶれの自分と戦っていました。

あのシーズンは、本当に自分の実力のなさが露骨に出たシーズンで、最後のプレイオフの試合も全くいいプレイが出来ないままシーズンが終了しました。
こんなプレイじゃ、こんなメンタリティ、こんなフィジカルじゃ絶対にプロではやっていけないと痛感しました。
ただ俺の中では、
俺はこの程度の選手じゃない。
もっと出来る。

「今に見てろ」を毎日自分に言い聞かせながら終了したルーキーイヤーでした。

余談ですが、ルーキーイヤーにフリースロー賞を貰いました。
これも、シーズンの最終戦まで僕はフリースローの規定本数に2本足りてなくて、最終戦の試合前にチームメイトの青木勇人さんが、「あと2本フリースロー打って、2本とも決めたらフリースロー賞取れるぞ!」と言われ、実際にその試合でたまたま2本フリースローをもらい、2本とも決めてフリースロー賞をもらったというわけです。

ここだけの話、あのフリースローは信じられないほど緊張して、手が震えていたのを覚えています。。笑
今思えば、あのフリースローが入った事が、この後10年続くキャリアにとって大事な出来事であり、一つのターニングポイントでした。

続くかも、、、

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