【コギトの本棚・対談】 映画『まんが島』公開記念 守屋文雄 第二回

第二回

縁あって、守屋文雄監督「まんが島」を試写で拝見しました。
そうしたら、どうしても監督本人のお話しを聞いてみたくなりました。
つてを頼りに、お願いすると快く受けてくださいました。
実際お会いしてみると、お話しは尽きず、ついつい時間を忘れてしまいました。
とにかく、お読みください。
そして、「まんが島」を観てみてください。

(文責:いながききよたか)


profile:
守屋文雄(もりやふみお 1976年生)
2001年、日本大学芸術学部映画学科卒業。
2005年、「ヒモのひろし」が第二回ピンク映画シナリオ募集に入選。
その後、脚本家、俳優、監督として活動。
2012年、映画「キツツキと雨」(沖田修一監督)、2016年ドラマ「ディアスポリス 異邦警察」などの脚本作品がある。
2017年㋂、満を持して監督作品「まんが島」公開。


・『あまり元気のいい子供ではなかった』

いながき:そもそもシナリオはどう勉強しましたか。

守屋:一応大学でシナリオの授業はありましたけど、それこそ、シド・フィールドは大学を出てから、ああ、こういうものがあるんだと買って読んだくらいですね。
あれってやっぱり役に立つじゃないですか、ちょっと躓いたらチェックできるし、そういう実用的なことは学校ではあまり教わってないかな。
とにかく書いて見せてみたいなことばかりでしたね。
台本自体は高校の頃に『月刊シナリオ』の存在を知ったんですよね。今だと映画ってスマホで撮って編集もできてしまうんですけど、当時はできないじゃないですか、だから作りたいものを一つの形にしておくことって、シナリオが一つの手ですよね。
だから、高校出るころ、台本らしきものは書いていて、それが最初ですね。

いながき:それは子供の頃目指したまんが家というものとリンクしますか?

守屋:机に向かって、その中で一つ世界を作るというのは好きだったんでしょうね。あまり元気のいい子供ではなかったと思いますね(笑)。

いながき:とはいえ、監督をし、演者さんとしても出演するという意味では陽性な部分もあるんだと思いますが。

守屋:高校の時、演劇部に入ってたんです。大道具が作りたくて入ったんですけど、共学の高校で演劇部に男なんていないんですよ。そうなると、出なさいと言われるんですよね。
大学に入っても、映画作るんだと思って監督コースに入ったわけですよね。そして実習の映画を作ろうという時に、ちょっと出てよと言われて、自分もいいよと。
ピンク映画もそうです。台本で応募したんだけど、いまおかしんじさんから、「これカラミあるからやってね」と言われたり。「また、出てるな俺」ってのでずっと来てますね。

いながき:そういう縁で転がる方なんですね。

守屋:人生で同じことが三回起きてるんですね。
こっちだと思っていったんだけど、結局出てるっていう。
出演するときは意識的ですけどね。たとえば、俺が出なかったら、別の役者さんがここにいるんだってことは、すごく意識はしてるんです。台本書くときより意識してるかも。

いながき:そういう意味では横断的ですね、役者、監督、シナリオという三つのフェーズがありますね。

守屋:やっぱり書いてる時間がないといけないなとはなんとなく感じていて、誰に確認を取ったわけでもないですけど、自分の芝居をいいよって言ってくれるその根っこには書く時間があるんだろうなって、勝手に思ってます。書く時間って、誰にも頼れないじゃないで すか。


・『苦しいと言っていこう』

いながき:好きなことを仕事にできていいよねって、かつて言われたりして、もちろんその通りなんだけど、書くことって、楽しいという感覚と苦しいという感覚が同時に起こりますよね。じゃあ、書かなきゃいいじゃん、と言われたら、そうでもないんだよなと。でも、書くって本当に誰にも頼れない苦しい時間なんですよね。

守屋:そうなんですよ、独りだから、この苦しさってのを比べるものって周りにないでしょ? だからそれは苦しい人が、一生懸命、苦しいって言わないと、一生誰にも伝わらないかなって思ったりするんですよ。苦しいんだよってことは言っていこうと思ってます。そうじゃないと、ハコに時間がかかるってことも、伝わらないじゃないですか。

いながき:この事務所にいたって、言われますよ、「お前はいいな、書くだけで」って(笑)

守屋:「まんが島」で監督をやって、これはこれで大変さはありますけど、懸命にやっているその最中に叱ってくれたりとか、意見を言ってくれる人が周りにいるわけじゃないですか。これのあるかないかって、質が違いますよね。

いながき:つまり独りで書くという行為は、評価を下すのも書くのも自分だということですよね。
話を戻しますと、撮影は2013年だったということですね。

守屋:2013年に撮影があって、2014年に編集が終わったんです。編集で丸一年ですね。
その後、音の作業があったんです。大学でも音の作業はしたんですが、今回はかなり試行錯誤しました。結局編集って目に見える画の積み重ねで、具体的にこのカット、とか、このフレームのここ、って指し示せるんですけど、同じことを音の作業でやろうとした時に、指し示す方法を録音の弥栄さんとの間で共有するのに時間がかったんだと思います。自宅の作業で聞こえた音の感覚に、弥栄さんの作業場のスピーカーから聞こえる音を近づけたいのに、全然近づかなくて、まず何をどうしたらよいかわからず、二人でしつこくやっていましたね。

いながき:イメージに近づける方法自体がなかなかつかめなかったということですか。

守屋:そうですね。伝え方が分からなかったというか。たぶん俺自身、音について何も知らなかったというのもあるんですけど、音は難しいと思いました。そもそも言葉で説明できないものなのに、スピーカーからはガンガン実体として聞こえてくる。最終的には、そこで鳴っている音を受け入れてから、弥栄さんとのやりとりも転がり出したような気がします。最初は家でヘッドホンをつけて作業してたんですけど、あれって、結局、耳が拾いたい音を拾って聞いてるんですよね。でも、スピーカーだと周りの音も一緒に来るから全く別物になるんですよね。

関:確かに、「まんが島」の音は整音が難しそうですね。カメラワークも表現も荒々しいじゃないですか。音をきれいに整頓しすぎちゃうと、多分臨場感や面白みがなくなるから、他の映画より少し難しいかもしれませんね。


・『すべてのセリフを説明にならないように』

いながき:撮影自体は何日くらいですか。

守屋:地方で二週間、東京で三日くらいですかね。

いながき:撮影は壮絶そうですね。

守屋:壮絶だったんだろうなぁ。まあ、この体制での二回目はないと思って、皆さんに声をかけましたね。毎日おにぎりを五個ずつみんなに配って、一日それでしのいでくださいと。

いながき:マジですか!

守屋:朝、昼はこれで何とかしてくださいと。それで夕方は帰ってきたら、まあ、ドンブリ物とか、そういうものはあったけど(笑)。

いながき:撮影自体がサバイバルですね。

守屋:これはまあ、小さい声でしか言えないですけどね。

いながき:現場でアドリブはありましたか、それとも逆に台本に沿った形でしたか?

守屋:だいたいシナリオに沿ってると思います。アドリブ的なことはやってないと思いますね。当時、go-proが出たばっかりで、水の中のシーンはカメラマンに好き勝手やってもらったんですけど、芝居に関してはないですね。

いながき:それはすごいですね。僕は本編を見ていて、台本はどうなってるのだろうとすごく気になりました。

守屋:どうしてもシナリオって映画のおしまいに向かうためのセリフだったり芝居だったりになるじゃないですか、それがどうしても我慢できなくなって、どういう基準かと言うと、すべてのセリフを説明にならないようにしたんです。

いながき:逆にまったく説明にしないということですか。つまり説明にならないようにするということですか。どこから始まってどこに行くというシーン内構成があって、奇しくも説明になってしまっているセリフってあるじゃないですか、サービスでも意図的でもなくて、そういうセリフさえ注意を払って、そうならないようにしていったということなんですかね。

守屋:多分、そうですね。

いながき:なるほど。

守屋:例えば、どうしてみんながこの島に来ているのかなどは全部言い訳にしか思えなくて、なにに対する言い訳かわからないですけど(笑)、お客さんに対してだったのかな、とにかく言い訳にしか思えなかったんですよね。人って急に怒ったりするじゃないですか。これってドラマとして人が急に怒ることは面白いとかそういうことじゃなくて、映画を見ていたら、となりの席の人がなんだか知らないけど急に怒りだすとか、ちょっと信じられないけど、もう状況として受け入れるしかない事態。でも一旦受け入れると、その時間の中で自分の感じ方が変わってくる、状況の見方が変わってくる、そういうことがたまにあると思うんです。その人が怒るまでを説明すれば、お話として分かってもらえる、でも「まんが島」は、お話しに収めたくなかったし、おさめようとすると目指しているものからズレてきてしまう感覚が書きながらありました。


・『質問が出ないおかしい台本、でも……』

いながき:例えば、「まんが島」のプロ―モーションの中で、「あれはどういう意味だったのか?」と聞かれることはありますか?

守屋:そういうピンポイントで聞かれないですね。というか、そう聞く人はこの映画を面白がってないんじゃないですかね。だから取材にも来ないというか……。俺、これ、いけないこと言ってるかな……。

いながき:そんなことないと思います。
さかのぼって、撮影の時、役者との関係はどうだったんですか。
つまり、普段、シナリオってタスクや目的があって、そこに向って進むじゃないですか。いわゆる段取りですよね。「まんが島」はそういうものがほとんどない映画だったと思うんですけど、役者さんはそれをすぐ飲み込めたんでしょうか。

守屋:そうですよね。本当は役者からそういう質問が出ないとおかしい台本じゃないですか。でも、誰からも質問された記憶がないんですよね。

いながき:あらかじめ、宣言したわけでもなく。

守屋:じゃないですね。そういう人を俺が選んで声をかけていったのか。意識はないですけどね。

いながき:僕も自主映画を作った経験があります。その時も、普段シナリオを書いている時も、少しウザいなと思う瞬間があって、「これどういう意味?」「この時の、このキャラクターの心情は?」というやりとりの時です。このやり取りそのものがイヤなのではなくて、一生懸命自分で言葉を継いで、説明している自分が嫌になってくるというか。
そういう嫌になる自分っていうのが、「まんが島」を見ると、スカッとするんですよね(笑)。

守屋:わかる気がしますね(笑)。

いながき:ただ一方で、サービスというと語弊があるかもしれないけど、気持ちよく見てもらうためのサービスって我々するじゃないですか。それを排除することに対する恐怖感みたいなものはなかったですか。

守屋:性格的にそういうことには敏感な方だと自分で思っていて、ここはセリフで説明しておいた方がいい、とか、名前を二回出しておかなければこのキャラの顔が浮かばないとか、そういうこともすごく考えるんですけど、「まんが島」に関してはそういうことは一切止めようと思ったんですよね。

いながき:自分の中でドグマを作って、それを貫き通すと。

守屋:そういうことだったんでしょうね。

・『たかが映画なんですけどね』

いながき:今、上映を控えているじゃないですか。これ、言えば失礼になるかもしれないけど、

守屋:ないですよ、そんなことは。

いながき:では。方や、映画を上映するという事は原理的にたくさんの人に見てもらうということがテーゼとしてあると思うんですが、伺っていると完成させるまではその原理と逆行している部分が多い気がします、そして今上映するという段階になってその原理を反転させなければならないという点についてはどう感じているのかということに興味があります。
多かれ少なかれ映画って我を貫き通す作業じゃないですか。それを多くの人に見せようというとき、どう自分の中で折り合いをつけるのかなということです。
僕も自分の書いた映画を人に薦めるときって、それがどんなエンターテイメントだったとしても、「おもしろいから見てよ」と言うことに、どこか引け目に感じるんです。

守屋:いや、あの、毎回毎回、どの映画でも、これからもそうでしょうが、その都度お願いするっていうか、観ては欲しいんですけど、観たあとに関係が壊れちゃうっていうことも起きちゃうかもしれない映画だよなってことは、なんとなくわかってきて、気が重たいですね。
面白いと気に入ってくれる人は、確かにいるんですが、そうではない人たちも、同じくらいかどうかわからないですけど、そういうネガティブな言葉は届きづらいですから、でもそういう人たちも確かにいるから……。たかが映画なんですけどね。

いながき:そこまでやる映画に、僕はすごく感心するんです。監督というポジションって、プロモーションの先陣を切らなければならないわけで、結構大変じゃないですか。脚本家ってそういう意味では無責任だから。

守屋:そうですよね。横にいれたらいるみたいな感じですもんね。


・『勝手に動いているモノとしての映画』

いながき:僕はマンガがすごく好きなんですけど、まんが好きなんですか?

守屋:これもあまり大きな声では言えないのですが、うちにまんがは少ないんです。『こち亀』と、『まんが道』と、台本書いた『ディアスポリス』と、あと『まんが島』が動き始めてから宣伝までの間に、意識的に読み出したものが何冊か、ぐらいなんですよね。

いながき:じゃあ、まんがの島であるという設定は、純粋に小学生のころ水澤さんとまんが家を目指していたことに関連していると。

守屋:そうです。自主映画を作るとなった時に、35歳のおじさんである俺と水澤ができる役として、画づら的におもしろくて、リアリティのある役ってなんだろうって考えた時に、たとえばタクシーの運転手とかもあったんですけど、いろんな制作的な条件を考えた時に、汚い格好してベレー帽かぶって、売れないまんが家というキャラは自主映画の規模でなにかできるかもなという始まりでした。

いながき:劇中のまんがはご自分でネームを切ったんですか。

守屋:そうですね。

いながき:それで描いてもらったんですか。

守屋:まんが家さんの知り合いなんていなかったので、トキワ荘プロジェクトというのを教えてもらって、そこにとりあえず電話して、その中の岡田悠さんという方にネームを渡して、描いてもらいました。

いながき:『まんが島』は、映画を作るためにまんがを起こすという方法だったんですね。ところでまんがを原作に映像化する映画が現在多いと思います。これって結構難しいですよね。僕は実はまんが原作はやったことがありません。守屋さんが書いた『ディアスポリス』のシナリオは原作からストーリーを採録したんですか。

守屋:あれはすでに初稿があって、監督の直しのあとに入ったんですよね。ゼロから上げることはしていません。
映画になってはいないですが、まんが原作はやったことがあります。まんがって自分で読むじゃないですか、「まんが島」の中でも関連したセリフがあるんですが、自分の手でページをめくるから、人が動かしてるんですよね。でも、映画とかドラマって電気で動いてるじゃないですか。そこの違いがどうしても出るんですよね。一コマ目からト書きに起こしていけば、一見映画になりそうなんですけど、絶対そんなことないですよね。

いながき:そうですよね。まんがと映画を比較すると、映画は時間による瞬間芸術なんだと再認識させられます。まんがだと長短は自分の意識で自在なんですが、映画の場合は原則として上映しているリールは巻き戻せない。

守屋:その勝手に動いているものとしての映画とお客さんを繋いでいるもののひとつが物語だと思うんですけど、『まんが島』は、そうじゃない方法でお客さんとのつながりを作りたかったんですよ。


・『1カット目が面白くて、2カット目も面白くて……』

いながき:そうじゃない方法って「まんが島」においてはどんな方法ですか。

守屋:理想を言うと、原理主義みたいなことになるんですが、1カット目が面白くて、2カット目も面白くて、そのうち変な音が入ってきて、その音も面白くて、次の画も面白くて、ということで何分いけるか、ということなんですよね。
そうなると、途中でしんどくなるお客さんも出てくると思うんですよね。最初は目新しさでいけるかもしれないけど、しんどくなる人は出てくると思いました。どっかで諦めるというか、どこかで映画に委ねてくれたら、お客さんとの間でいいことが起きるんじゃないかなということは考えていました。起きてほしいなという気持ちはありますね。

いながき:先日、『ラ・ラ・ランド』という映画を見たんです。なんというか、物語とはまったく関係ないカットの刺激の映画なんです。

守屋:そういう映画なんですか?

いながき:みんながみんなそう思っていないと思いますが、僕はそういう映画だと思いました。色彩とか、それこそミュージカル的な音と動きの連動だとかが刺激的なんです。 ただ、僕はまったく感心しなかったんです。なぜなら、これはまったく物語の映画ではないはずなのに、監督はどうやら強く物語を信じているらしいんです。その齟齬に僕は怒りにも似た嫌悪を感じたんです。

守屋:もしそうだとしたら、だって、それはウソですよね。そういうフリしてるだけじゃんという。

いながき:そうそう、ウソなんです。それに比べたら、今守屋さんがおしゃった映画としての画の面白さと音の面白さでどこまでいけるかって、大変なトライだと思うし、現に「まんが島」はそういう映画になっていると思います。

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